結月でございます。
先日の昼下がり、愛娘を一緒にチャイコフスキーの交響曲第5番を聴いていて、随分昔に死んでしまった高校時代の友達のことを思い出した。
死んだのは7月か8月で、それは葬式がひどく暑かったから覚えている。
大学受験はせず、高校からの推薦入学で明治学院大学へ入り、卒業して就職したその年に社宅で死んでいたとのことで、部活仲間からその連絡があった。
数ある三菱のどこかの会社で、高校の頃から優秀だったので、就職氷河期であってもうまく就職できたのだろう。
就職してたった数ヶ月で死んでしまったから、それが過労死であるのかはわからないが、ほかの友達には死ぬ直前に仕事がきついようなことをこぼしてたという。
そんなことをチャイコフスキーの5番を聴いているとふと思い出して、この曲は過去へ向かう曲なのだと思う。
葬式でわたしはヘラヘラしていて、大阪らしいボケをしていたりして、その後、久しぶりに集まった部活仲間で難波に飲みに行ったが、その時もわたしに限らずそんなに悲壮感はなかった。
それは今思うと、あまりに突然すぎて、あいつが死んでしまったことのリアリティがなかったからだろう。死んでいるのに今まで通りにといった具合で、あいつがいるものだという雰囲気だった。
しかしその翌日、実家で親と食事をしているときにあいつの話になって、わたしは泣き崩れてしまった。
そういえば、葬式では彼の父親が嗚咽しながらスピーチをしていた。
高校三年の修学旅行は、その数日前に馬券を買いに難波の場外馬券売り場に行ったせいか、わたしはインフルエンザにかかってしまい行くことができなかった。
しかし、それは蔵王にスキーであり、スキーなんてやりたくもないわたしにとってラッキーなもので、皆が蔵王に行っている間、インフルが治ったわたしは難波で映画を観て遊んでいた。
バイクが好きだったあいつは奈良に住んでいて、原チャリでわたしのいる京都までやってきて、お土産を持ってきてくれた。
それは雪だるまのイラストが描かれた置き鏡で、今もちゃんとうちにある。
たまにあいつを思い出しては思うのが、あいつが生きてくれていれば、部活の同級生を集めて数年に一度は同窓会みたいなものを企画してくれていただろうなということ。
今はみんなバラバラになって、わたしも電話番号を知っているのは三人しかいない。その三人とも連絡を取ることはない。
あれだけみんな仲が良かったのに社会人になると疎遠になるもので、まあ会ったとしても話題はそれほどないし、会ってもしょうがないかという感覚が共通しているのかもしれない。
でも、あいつがいてくれたら、その辺のことはうまくやってくれて、アホなことで騒いで、楽しく同窓会をやれていたと思う。
生きていたら、きっと愛娘のためにいろんなものを買ってバイクで栃木まで来てくれただろうな。
なんでああいう奴が死んでしまうんだろう。
悪ふざけはするけれど、人付き合いがうまく、誰からも嫌われることがなかった。勉強もできて、あいつの嫌なところを言えと言われても思いつかない。
過労死だったのかその真相はわからないけれど、そういう優秀さがアダになったのかとも思う。
あいつのことを思い出してもどうなるということはないとは言え、あいつがいてくれたらなぁという気持ちになる。
あんなことがあった、こんなことがあったという過去の記憶の反芻ではなく、今現在、あいつがいてくれたらいいのになと思うのにそれができないことを悟ると、やっぱりあいつは死んだのだと寂しくなる。