結月でございます。
本は読まなくなったなぁって言い始めてもう何年も経っていて、それは読みたい本がないってこともあるし、インプットよりもアウトプットしたいことがあるって理由が大きい気がする。
アウトプットに必要となる本となれば読むわけで、つまり無目的に漠然と読書をするってことはしなくなった。そして読みたい本がないっていうのは、本が悪いのではなく、わたしが単に求めてないだけ。
そんなことを言いながら、イプセンの戯曲を2冊、買ってしまった。イプセンは『人形の家』が有名だけど、それは昔読んだので、『幽霊』と『ヘッダ・ガーブレル』。
わたしは小説よりも戯曲が好きで、戯曲を開くと、
「やっぱ、いいよなぁ」
なんて思ってしまい、台詞だけでやり取りすることのおもしろさ、すなわち地の文を使わずに表現するのがいいんだよね。
さて、イプセンは近代演劇の祖とも言われていてもすでに古典。
最近わたしが思うのは、古典は読むべきだけれど、古典に埋没しちゃいけないんだなってこと。
わたしは古典に埋没しすぎたせいで、いろんな側面で自分が出遅れたと思ってる。それは今だからわかること。
芸術にしても文学にしても古典的なものへの憧憬が強すぎて、教養にはなったかもしれないけど、先進的な視野を獲得するのに出遅れた。
古典ってなんだか良く見えちゃうんだよね。それゆえに新しいものを拒絶したくなっちゃう。これがいけない。
古典はすでに過去のもので、それがどんなに名作であってももう取り戻せないもの。そこに憧憬を持つと、過去にばかり生きてしまう。
本当は古典を糧にして、未来を創り上げなきゃいけないのに古典に酔うと時代錯誤になる。
歴史も同じで、歴史を学ぶことは未来のためであるべきで、過去の歴史ばかりに目を向けるのは良くない。
ところが過去というのはすでにあったもので、それでいて全体は見えない。だからそこに想像で遊んでしまうところがあり、それが結構楽しい。ところがそうなると未来志向はなくなる。
学者なんてそういう人間が多くて、わたし自身、それを通して文学部というのは無駄だとわかった。なぜなら、それを研究する教授たちが過去の文献しか読まないから。
大学教授は哲学だったらいつまで経ってもカントを読んでいたり、ニーチェを研究していたり、過去の文献ばかり漁っている。文学ならいつまでもドストエフスキーであり、いつまでもスタンダールであったり。
そうなると今の社会に関わらなくなって、いわば趣味の領域になってくる。だから文学部は趣味なんだよ。
ハーバードのサンデル教授の白熱教室が人気になったのは、それが趣味でなく、過去の文献から現在の問題を取り組んだからだろう。本来、そうでなきゃいけない。
さて、どうして古典のような過去がこだわりある趣味になってしまうか、それは過去のほうがすでに存在していて楽だから。
一方、未来は何もないもので、それは自分で築き上げなければならない。
言ってみれば、絵画の修復作業の絵描きとアバンギャルドの画家くらいの差がある。
何もない白紙の未来を描こうというのはなかなか大変な作業で、できれば塗り絵のように枠くらいはあって欲しい。そのほうが楽だし。
古典は過去の偉人たちが未来に取り組んだ結果であり、それはフォーマットになっている。だから勉強しやすいんだよね。
そして、白紙を埋める未来への取り組みは創造であり、勉強ではない。過去を暗記することでもないんだから。
わたしが本を読まなくなったのは、過去の遺物の本をかなりたくさん読んでしまって、知識は身についたかもしれないけど、読むだけだと今現在の世の中で生きるにはあまり関係ないよねって思い始めたから。
もう終わってしまった古典はいいよ。もうパス。未来志向になるとそう思うようになる。
そう言えば、先日、身の上話なんてつまんないってことを話したと思う。古典的名作なら人間の本質を描くすごい内容のものがあるからまだいいとしても、他人の身の上話ですげえっていうのはほとんどなく、骨董的価値がつかないただの思い出話なんだよね。そんな他人の過去なんて聞いてもそりゃ、つまらない。
身の上話ほどチープでなくても、わたしにとって古典は過去の歴史の身の上話みたいな感じがして興味がなくなったわけ。
未来への創造で生きていくと、多分死ぬまで自分が常に新しいものを見据えて生きていけると思う。ノスタルジックに古典に酔うなんてことはしない。
それに古典に酔うと、スノッブになってしまう。未来性はないのにこだわりが強くて、過去の作品に口うるさい。
なんかそういう現場を見てきて、嫌になったというのがある。
未来への取り組みをする中で、過去を知る必要は出てくる。そういうときに古典は生かされるべきで、古典に埋没する趣味になっちゃいけないんだよね。
と、自分がこれまで古典に埋没しすぎたせいで知識は増えても未来性への取り組みという意味で自分が出遅れたと思っています。
でも、古典を知ったことが未来への水先案内人となって、これから先は迷うことはない。
そういう意味では古典は知らないよりは知っておいたほうがいい。体系的に物事を捉えないと、ただの思いつきのデタラメになるからさ。
ただし、そこに埋没して後ろばかり見る趣味に陥ることはするなってことで。