結月でございます。
ボーヴォワールの『第二の性』はフェミニズムのビッグバンみたいな本で、
「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」
といきなり挑戦的なことを言い出す。
ボーヴォワールはサルトルの事実婚をしていたくらいだから実存主義者であって、だからそのフェミニズムも大変実存主義的、というか実存主義の視点で考えられている。
じゃあ、実存主義とは何か?と一言で要約すると、それはサルトルが言っているように、
「実存は本質に先立つ」
これに尽きる。
しかしながら、戦後に流行った実存主義も構造主義が出てからは否定され、哲学的には古臭いものになったけれど、いまの日本の自己啓発本なんかはなんちゃって実存主義だなと思う。
そういうものが出てくるのも、そもそも日本という国が個としての自己を確立して生きていくよりは、場の空気などで流されながら生きる没我の日和見主義の文化だからかもしれない。
その反動で「もっとちゃんと自分を持とうよ!」というなんちゃって実存主義が流行る。
それはいいとして、ボーヴォワールは女という性は生まれ持ったものではなく、社会的な「女」を強いられて女というものにさせられていくと考えている。
それは男性社会が築き上げた価値観で、いわば女という特性は男性社会が望むものとして女に刷り込まれたものということ。
確かにそれはあるなとは思う。
「女はこうあるべき」
なんていう古い家父長制にありそうな習慣は今でもあって、女は結婚したら家に入るべきと言った昭和的な発想は令和の現在でもある。
実は専業主婦とはあまり歴史が深いわけでもないけれど、社会がそういう女性像を作っているところはある。
女子大生の就職もそうで、親も企業も社会が作り上げた女性像から判断し、アドバイスしている。
女性とはそういう束縛が小さい頃からあって、そう育ってしまう。だからそれを破壊して、自由を得るというのがボーヴォワールのフェミニズムであろうか、簡単すぎるくらいに言ってしまうと。
今ちょっと話題の職場のでパンプス問題もその亜流かもしれない。
ともかくボーヴォワールは実存主義だから、本質、つまり人間の特性というのは後付けのもので、実存が先にあるというわけで、女という実存は社会的な本質よりも先立ってあるものだと考えている。
さて、わたしは毎日2歳半の愛娘と過ごしている。ちょうど2歳になる頃に東京から栃木に来て毎日過ごすようになったからちょうど半年である。
その半年でとても成長し、言葉の量も飛躍的に多くなったし、イヤイヤ期を通して自我もしっかりしてきた。
そんな子を眺めていて、
「やっぱり女の子だな」
と、思うことが多々ある。
教え込んだわけじゃないのに、服の選び方やその仕草などやっぱり女の子であって、男ではないのである。
ボーヴォワールが正しければ、女の子という本質はどこからか与えられ、無理強いされなければならないが、わたしはそんなことをしてないし、そんな環境でもない。
愛娘を見る限り、勝手に女の子になっている。
じゃあ、性同一性障害はどうなのかというややこしい問題があるけれど、それも自分の性自認に従ってそうなっていくので、実存は本質に先立っているのではなく、本質が実存に先立っているという理屈が通る。
本質が実存に先立つという実存主義とは反対の考えは、古代ギリシア哲学でプラトンのイデア論になる。
イデアという概念が元々どこかにあって、それが注入される形でこの世界ができあがる。
ちなみにスピリチュアリズム、つまり心霊主義でもこのイデア論であって、前世からの由来を考えると実存以前のものがしっかりと存在することになる。イデア論で考えれば、性同一性障害も単純に理解できる。
じゃあ、ボーヴォワールのフェミニズムが誤謬であるかというとそこまでは言い切れず、社会が女性であることを強いているのは事実であり、それに対峙して生きていく生き様の提唱としてはなかなかに説得力がある。
わたしが思うに実存は本質に先立たないけれど、本来の本質が社会を作り、その社会の中でいくつもの慣習が生まれ、教条化される。それが深い歴史となって積み重なると社会の思い込みとなる。
その思い込みが強大なものになってくると、女の元来の本質ではなく、あとで作られた本質めいたものが力強くなり無理強いされ、社会的な女が後天的に出来上がってしまうのではないか。
しかし人間は元々自由体だから、そこに葛藤が生まれる。そこから逃亡して自由に戻りたいと思う。
ところが社会の抑圧は強固であって、並大抵では自由になれない。それを打ち破るためのものとして実存主義が用いられる。
結局は自分が自分であるという自由を得られないと、人間は憂鬱からは逃れられず、属性に染まりながら生きる苦痛がある。
しかし、実存主義は社会と対決しなければならないため、それは大変な勇気がいる。その対決を怯えてしまい、星占いに頼ったりするとより一層、自己を放棄することになってしまう。
実存は本質に先立たず、本質が先なのだから、その本質をもちながら実存主義的に自己を確立するのがいい。
2歳児を見る限りは、
「女は女である」
ジャン=リュック・ゴダールの通りなのである。
Une femme est une femme.
だから、同時に、
「男は男である」
とも言える。