結月でございます。
例えば、付き合っていた人と別れることになってしまって、クヨクヨしても仕方がないから、
「次行こ、次!」
みたいなアドバイスってあるよね。
それは正しくて、もう修復できなくて、取り戻せないものに対して思い悩んでも時間の無駄だし、精神的にもよくないのだから、元に戻らない過去は忘れて、
「次行こ、次!」
と、考えを新たにして次に進もうっていうのはいいんですよ。
ところが、これを多用しすぎじゃない、みんな?って気がする。
何かに失敗したときや取り組んでいることにどうも成果が出ないときなど、
「次行こ、次!」
と切り替えることは大事とは言っても、なぜ別れてしまったのか、なぜ失敗したのか、なぜうまくいかないのかということをきっちりと検証しないと結局同じ失敗をしてしまうわけだよね。
でも、そういう自己検証って、自分の駄目なところを直視しなければならないから、結構嫌なものだし、メンタルが弱いとそれをすることによってさらに自分が駄目になるから、それを見て見ぬ振りをしてスルーしてごまかそうとする。
こんな無検証のまま、
「次行こ、次!」
みたいな一見、ポジティヴに見えるものでごまかしてないかな?
飲み会でそういうアドバイスをされると、一時的に元気が出ちゃって、
「うん、頑張る!次を頑張る!ありがと!」
というように気分が良くなり、アドバイスしたほうもいいことしたななんて自己陶酔に浸る。
でもやっぱり、その人の駄目なところって改善されないまま放置されているんだよね。
放置されていると、また同じ失敗をするから、また落ち込んだりして、時間が経っても全然、その人って進歩してねーじゃんってことになる。
こういうのって健康診断と似ているのかもしれない。
暴飲暴食したり、過度に寝不足だったり、甘いものを食いまくってたりしていて、病気になる確率が高いにもかかわらず、人間って健康診断から逃げたいと思う。衝撃の真実を医者から知らされて、大好きな酒だとか、大好きな甘いものだとかを辞めなければならないとなるとそれが嫌だから、健康診断を受けずになかったことにしておきたい。
そうして生活習慣は改善されないまま、定石通り病気になってるみたいな。
糖尿病になっていてもどうして自分が糖尿病になったかを検証しないで、
「次行こ、次!」
と、また甘いものを食べるというようなこと。
ところが病気だと実際の肉体の苦しさが痛烈だからまだ治そうとする。しかし、考え方となるとリアリティが乏しく、なかなか自己改善できないまま、問題を解決しないままスルーすることが多い。
学校の勉強も同じで、因数分解がわからないのに、
「次行こ、次!」
と一次関数に行ったところで、一次関数ができるわけがない。そして一次関数ができないまま、
「次行こ、次!」
とごまかして二次関数に行っても、やっぱりできない。
学校の成績は点数で具体的にドカンとやられちゃうから、それがトラウマになっているのかもしれない。
さて、そういう心理がよく見られることを考えて、なぜそうなるのか?を検証してみると、おそらく、その原因は、
「プライドが高いから」
自分が駄目なことを認めるのが苦痛であるのはプライドが高いからであり、プライドが高いと駄目なことを隠蔽する。隠蔽しても駄目なことは変わりないから、やっぱり駄目で、言い訳ばかりが増え、挙げ句の果てにはグスグスと泣いちゃって、同情を得る態度になって、
「あいつ、うざいよね」
とか言われてしまう。
プライドがなく、
「ここ、全然わからないんで、教えてください!」
と素直に言えば教えてもらえるものだし、プライドがないとどうして自分がそれをできないかを検証できる。
その結果、勉強でも仕事でも何でもこなせるようになり上に行ける。
ただ、単にプライドがないだけじゃ駄目で、向上心がないといけない。単にプライドがないだけだと、
「俺、馬鹿なんで何もできないッス」
みたいなことを頭をかきながら照れ笑いしてることになり、発展がない。
しかし、それでもプライドがある人よりマシなのは、自分で馬鹿認定している人は素直なところがあって余計なことは言わないし、あまりめんどくさくないという人の良さみたいなものがある。
というわけで、自分が何かのことをうまくできないのは、なぜできないのかを自分のことを分析できてないからで、さらにそれを改善する行動をしてないからでしょう。
「いつも自分はこうなのよね…」
なんて自分の欠点は理解しても、それをひっくり返す行動をしないとやっぱりスルーのままだから。
自分の駄目さを検証するなんて誰かが見ることでもないし、自分しか見ちゃいないんだから恥ずかしいことでも何でもないんだけどね。
でもプライドが邪魔しちゃうんだよなぁ。
そんなプライド、この世の中では何の価値もないんですけどねぇ。