結月でございます。
基本的にテレビはとちテレ以外は見ないわたしですが、2歳の愛娘がアンパンマンのDVDを見ようと勝手にテレビをつけ、DVDをセットする。
だから、テレビをつけることになるのだけれど、昨晩、たまたまNHKスペシャルが始まり、それは「彼女は安楽死を選んだ」というものだった。
難病で回復の見込みがない二人の女性が出てきて、一方はスイスで安楽死を望み、もう一人は延命治療を選択する。
しかし、久しぶりにすごいものを見たなという印象で、どんな名作の映画もあのドキュメンタリーには敵わない。
もうあれはピューリッツァー賞じゃないかと思う。
いや、よく撮ったよね。あれは。よくあそこまで踏み込んでカメラまわしたよ。すごい。安楽死の現場、それは自分で安楽死のための点滴を開放し、その数十秒後に眠るように死んで、死亡確認を医師がするところまで撮っているから。
プロデューサーもディレクターもカメラマンも見事な仕事をしている。二人の違った道を行く患者を描いた番組構成もすごくいい。
おそらく安楽死する彼女も自分自身の選択として、そして死を選ぶ自分の生き方として撮影を認め、それを見せることで安楽死への問いかけをしようとしたのだと思う。
さて、あのような状態になったとき、自分ならどちらを選ぶだろうとあの番組を観たひとは考えたと思う。
わたしは間違いなく安楽死を選ぶ。
あのような難病で、自分が情報発信することができなくなり、社会と関われなくなったら安楽死を選ぶ。そうしないと家族が疲弊するという彼女の話もよくわかる。
ただ、延命治療を望む気持ちもわかる。それはきっとその人のそれまで生きてきた人生観であったり、何かに執着があるかどうかの違いだと思う。
だからどちらが正解ということでなく、答えがない。
安楽死を望むと言っているわたしだって、今、難病に罹り、体が動かなくなったらまだ小さい愛娘を見たいから延命を望むかもしれない。
どうせ死ぬんだったら、人工呼吸器をつけてでもとことんまで生きてやろうと思うかもしれない。
でも、こうしてパソコンのキーボードも打てず、やりたいことが何もできない状態で動けないままじっと天井を見ながらベッドで寝続けることを想像すると、歯がゆいを通り越した絶望的な気持ちに自分が耐えられる気はしない。それなら自分の意思がはっきりしているうちに安楽死したいとも思う。
やはりこれは当事者にしかわからない。
日本には安楽死がないけれど、少なくともどちらかを選べる状態というのはこれから必要な気もする。なぜなら医学の進歩で、昔なら普通に死んでいたものが人工呼吸器などで肉体そのものの生命を維持することは可能になってしまったから。
しかし、安楽死する直前に彼女が「幸せだった」と二人の姉に言うところは感動的だった。
幸せを身にしみて感じながら死ねるのは、本当の幸福かもしれない。
それはその苦難を不幸とは思わず、幸せだと捉えられるメンタルがなければならない。
多くの人は不幸ばかり見つける達人で、愚痴ばかりこぼしているが、そういうメンタルでは本当の幸せは得られない。
そして、幸せだったと言えるくらい、一生懸命生きることをしていないと未練がましくなって幸福な死には届かない。
もう自分はやりたいこともやって、たくさんの人の世話にもなって、もう十分、これ以上望むことはないという満足。そう考えられるメンタルがなければならない。
でもこれは本当にわからない。
どんなにしてまでも生に執着すべきという考えもわかるしね。安楽死は諦めだと思う人だっているかもしれない。
ただ、昨晩の番組で安楽死した彼女に悲愴感はなかった。充実していた。感謝と幸せを思う存分に感じていたように見えた。
すべての安楽死があんなに美しいものでないかもしれない。
結局は当人の生き方であり、わたしたちは誰がなんと言おうと、自分の人生を自分で決定して生きなければならない。
そこには正解はないのだろう。