結月でございます。
ネコ、ネコ、ネコ〜 ネコが好き〜!
と、わたしは猛烈に猫が好きで、愛猫家という崇高な肩書を持っている。愛猫家がどうしてワンランク上かというと、それは「家」がついているから。
世の中には「家」がつくものはワンランク上と決まっていて、小説家、画家、建築家などなど、それらはブロガー、イラストレーター、土建屋のサラリーマンとはクラスが異なる崇高な立場なのである。
唯一、「家」がついてクソなのは批評家であり、他人の作品や行為に愚痴やウンチクを述べて儲けている一等、クソな種族と言える。
さて、そんなワンランク上の肩書を持ったわたしは、告白してしまうと、2歳の愛娘とする食事よりも猫と一緒の食事のほうが好き。
2歳児との食事も楽しいし、可愛いし、わたしが作った料理をおいしく食べてくれるからそれはそれで幸福な時間と言えるかもしれないけれど、箸の持ち方を教えたり、こぼしたものをティッシュで拭いたり、
「ぎゅうにゅう、ちょーだいっ!」
と、キティーちゃんのカップを偉そうに差し出され、
「はいはい」
と立ち上がり、冷蔵庫まで行って牛乳を注いで持ってくるというキャラに合わない召使い扱いされたりして、どーにもこーにも落ち着いてご飯を食べられず、言ってしまえば食べた気がしないのである。
それに引き換え猫たちとの食事は猫が勝手にしてくれているからいい。
食卓の上にゴロリと寝そべり、時折、皿のものを勝手に食べている。
お刺身の時は盛大で、興奮した猫たちが刺身に群がって、モシャモシャと音を立てて食べている。その隙間に箸を伸ばしわたしはお刺身をつまむのであるけど、それが猫との仲の良さというか、連帯感みたいなものを感じさせて心地がいい。
しかし、その風景は猫が苦手な人にはゾッとするに違いなく、これができてこそ、愛猫家の称号を得られる。
わたしは猫を飼っていても猫とお刺身を共有できない人は、ペットとして猫を飼っているだけで、それはワンランク上の愛猫家とは言えないと認識している。
ちなみに愛猫家は猫がかじり残したお刺身でもさっと醤油をつけて食べられるのである。
ところで猫は室内飼いだと17年ほどの平均寿命があり、考えてみれば20年近くも一緒にいて食事をしたり、布団で寝たりする相手は他に思いつかない。
今は一緒に寝ている愛娘だってずっと横で寝ているわけはなく、ある程度の年齢で一人で寝るようになる。
配偶者だって一緒に寝ているのは新婚くらいなもので、夫婦が何十年も一緒のい寝ているなんて気持ち悪くて仕方がない。
愛人がいたとしてもせいぜい付き合いは長くて数年だろうし、しかも毎日会うわけでもない。
毎日一緒にいて喧嘩もせず、仲良しでいられるなんて人間相手ではまず考えられないことで、ここに猫のすごさがある。
犬もいいかもしれないが、犬は食卓で寝そべっていることはないし、一緒に肉でも食おうものなら、一口でペロリとやられてしまって喧嘩の種になる。
ともかく、そんな関係を20年近くもできるのはやっぱり猫の良さであり、その年数は一人の人間の一時代であり、猫たちと暮らし始め、そしていつかは別れるそれは人生の大きな節となっている。
結婚生活だって今は離婚が多いから、20年ももつことがどんどんレアになってくる。
愛娘もあと15年もすれば、どこかの大学にいて、それは日本でないかもしれないし、一緒にいないことは間違いないし、一緒にいるべきでないと思っている。
でも、猫だけはずっと一緒にいて欲しい。でも、生き物だから寿命がある。
人間よりも短い寿命であるけれど、それはそのように神様が創っているに違いない。なぜなら、猫の寿命が長いと、人間が猫に甘えてしまって、だらしなくなって、成長しないから。
猫といるのはせいぜい20年未満にしておいて、それが終わればまた新たな一時代を自分の中に作りなさいということなのだろう。
必ず終わりが来る付き合いだから、人生の猫時代の真っ只中にいるわたしは猫たちを大事に可愛がっている。