結月です。
愛娘の保育園はいつも給食。でも明日は保育園の都合で弁当を持ってきてくれとのこと。年に一度か二度、こういうことがあるらしい。
というわけで、今日、保育園に迎えに行く途中で子供用品の店に行って弁当箱を買う。
フォークとスプーンがセットになったものがいい。
しかし、2歳児だからそれほどたくさんは食べないし、つまりおかずの品数を増やしても食べきれない。とは言え、あまりに貧相な弁当を作ると普段の食生活を疑われてしまうのではとの懸念がある。
毎晩、わたしがクッキングして食べさせているから、貧しい食生活ではないのだけれど。
昨晩も白菜とネギ、豚肉が入った特製のおかゆを作ったけれど、丼鉢から豪快に食べていた。
「おいしいね!」
と2歳児は言う。
そうなんよ。わたしの料理はおいしいんよ。なぜなら、今までうまいものをたくさん食べてきたから。
しかし、弁当というのは作ったことがない。家の食事だとひとには見せないけれど、弁当は周囲に見せることになる。
2歳の園児たちだから弁当の良し悪しなど言い合うことはないとはいえ、やはり気を遣う。
しかも食べる量が少なく、品数も増やせないとなるとこの制限の中で作る難しさがある。
愛娘は納豆が大好物で、いつも、
「なっとー、なっとー」
と、せがむのだけれど、さすがに弁当に納豆というわけにはいかない。
ゆで玉子も大好物だから、まあこれは入れておこう。
この人生初体験、どうクリアしようか。
こんなわたしが子供の弁当を作るなんて滑稽に思えるけれど、人間はこれくらいのことはできなくちゃね。
でも中学生になったら毎日弁当を作らなきゃいかんの?
なんたるハードなミッション。
そう考えると、中学生のわたしに毎日弁当作っていた母親はえらい。しかも深夜の2時に起きて新聞配達へ行って、朝7時に帰ってきて朝食を作りつつ、弁当も作っていた。
と思うと、これも因果応報かな。やられたことはやられっぱなしでは終わらず、ちゃんとエネルギー保存の法則通り自分もやらなくちゃいけなくなる。
でもさ、弁当って残されるとショックだよね。朝起きて作ったものを食べてもらえなかったって気分が悪い。
毎日弁当を作るとなると、まず飽きがこないメニューにしなければならない。そして味がもちろんいいこと。さらに他人が見ても見すぼらしく思われないこと。
今になって思うと、そういう感謝して食べてなかったな、母親の弁当。残すことはあまりなかったけれど。
愛娘には早い段階から料理は叩き込むつもり。なぜなら料理は企画力だから。
「料理が下手な奴には映画は撮れない」
と黒澤明監督は言ったけれど、その通りだなって思う。
料理には構成力、予算配分、発想力、技量、好奇心、そういったものが必要なので、料理が下手っていうのはその辺がダメなんだと思う。
だから早くから料理を教えるのは、そうした能力を身につければ大きくなってから会社で働こうが、実業家になろうか、絶対に食っていけると思うから。
ところで料理本のレシピ通り作るのはクソだね。それは料理したとは言えない。
レシピはあくまで参考までにとどめて、あとは想像力で創作しなきゃ。
それで失敗してもいいし、失敗しながら覚えるし、センスも磨かれる。
だからだろうね、料理人って話すとおもしろいひとが多いよ。
料理って正解がないから楽しいんだよね。