結月でございます。
ふぅ〜 今日は朝、保育園に愛娘シャンシャンを連れて行き、でも13時から2歳児歯科検診だったから13時前にまた保育園に迎えに行き、そのまま検診に連れていく。
50人くらいの子供とそのママさんたちに紛れ、
「着物とか芸術の仕事が早くやりたいんだけどなぁ」
と、思いつつ、こればかりは仕方がない。
虫歯になりそうな歯が2本あることを指摘され、お菓子などどれくらい食べるかの尋問を受ける。
「いやいや、アタシはわかってんのっ! そんなこと言われんでも十分わかってんのっ! 問題なのはもう一人の親なのっ!」
と、もう一人の親は文化大革命終結の翌年に中国の田舎で生まれて育った女だから、そういう知識面、教育面は望めないのはわかっちゃいるけど、平成も終わり、中国だってアメリカをまもなく経済規模で上回るこの時代に、
「そういうのは困るのっ!」
と、子供でなく、子供みたいな認識の親にアタシは説教する。
東京を引き払って栃木まで来たのはそのためで、これは教育的にヤバいと真剣に思ったから。
とは言ってもダメ親なんかではなく、そういう方面だけが弱いというだけでそれ以外の面ではその辺の日本のママさんよりはしっかりやってる。この女、すごいなって思うことは多々あるよ。
でも、子供は小さい頃からの教育で決まり、将来はそれで決まるわけでね。
と、シャンシャンの歯や体重が将来に出る病気の原因になっていることを厳しく説明し、わかったとは思うけどね。
と、こんなクソすぎる家庭的事情をあえてお話したのは、内容は違えどきっとどこも同じなんだろうなと、もしリアルタイムに育児をしている人が読んだら何か感じるものがあるんじゃないかってね。
つまり、夫婦なんてそもそも生まれ育った環境が違うから共通の価値観を持つのは一筋縄でいかないってこと。
国が違えばその差は大きいし、同じ日本人同士でも青森の人と愛媛の人は違うだろうし、それほど遠くなくても家庭が違えばまるで考え方が異なる。
本来、夫婦とはそういう対立にあるわけで、ところが結婚をするときには対立は出てこない。でも一緒に生活をしていくと対立がまた滲み出てきて、
「性格の不一致」
なんてアホな言葉を使い出す。
いやいや、そもそも他人同士だし、育った環境も違うし、この世には自分と同じ人間は一人もいないんだから、性格が一致するほうがおかしいわけで。それなのに一致を望むって、
「バカじゃね?」
と、わたしは相手に一致を望んでない。
一致を望むってとても日本的で、わたしが知る外国は一致なんて望む国はない。相手の個性を認めて、その中でどうやっていくのか意見交換をする。これがノーマルだと思うけど。
ともかく、個性が異なる他人といるわけだから一致はないです。
そして、子供という新たな個性がその間に存在するようになると、ただの夫婦だった時とは相手の見え方が変わってくる。
今まではわからなかった相手の人間性や認識、能力が見えて来たりする。
さらに子供の将来に関係する教育となると、
“御里が知れる”
という恐ろしいことが出てくる。
夫婦だけの時は相手が下品な食べ方をしても、
「まっ、いいんじゃね?」
で済んでいたものが、子供がそれを真似すると考えると、
「ぜんぜん、よくねーし!」
となってくる。
子供がどんな人間になるかは、その親次第。これははっきり言える。例えば、神経質すぎる親の元で育った子供はやっぱどこかおかしくなるしね。
だから、性格の不一致なんてレベルの低いことを言っておられず、
「子供の教育と将来に関しては夫婦で共通の認識を得ておこうよね」
っていうのが大事になる。
虫歯になりそうだから、そういうお菓子のあげ方は改めたほうがいいんじゃないの?ってことを共通認識にするのも結局は子供が現実で虫歯になって痛い思いをするところを見ないともしかしたら変わらないかもしれない。
でも、そんな簡単な想像もできないのはアホらしいから、できるだけ無駄なことはしないで共通認識を得たほうが子供にとってもいいわけです。
つまり、親は常にクレバーであるべきで、自分の育ちや性格、そして御里が知れたことで悪いことは改めなくちゃいけない。これはお互いであって、わたしもどういう言葉を選ぶべきかすごく考えるようになった。
だから、勉強し、自己改善すべきは子供でなく親なのであり、そのことを親が認識できてないと子供はドラ息子、ドラ娘になる。
というわけで、シャンシャンが生まれて新たなステージに入ったわたしで、
「あークソ、人間関係って身内でもメンドクセーわ」
なんて思いつつ、それは持ちつ持たれつで、わたしだって全然完璧じゃない人間で、実はどちらかというと駄目人間であるというのが真実であるから、向こうは向こうでいろんなことを思ってる。
そーいうもんなんだよ。そうやってやりくりしながら成長するんだ、人間は。
死ぬまで人間は成長する。生きてる限り解決しなければならないことは何かきっとあるから。寝たきりで自分の尻も拭けなくなったら、さて拭いてもらうにはどうすればいいか?ってことも考えなきゃいけないんだぜ。
でもさ、小さな子供を見ていると、この子がこの世に生まれて来たのは、その両親のクソぶりを改善させるためなんじゃなかって気がする。
子供がクソだと困るから、親は必死に自分のクソぶりを改める。
いや、改めない親もいるか。虐待して子供を殺す親もいるし。
少なくともわたしはシャンシャンが鏡になって見えた自分のクソぶりを改める生き方を選択するよ。
なんてことに追われつつ、着物や芸術の仕事をもっとしたい。
「したい!したい!したい!」
なんて言ってたら、2歳児の子供と同じなので、限られた時間でギュッと集中してやるッスよ。やりたいことをやるにはどうすればいいかって頭でクールに考えて、そして実行するのがアダルトな人間だからね。
子供みたいな大人じゃ、困るんだよね。