結月でございます。
本、要らない。マジで要らない。邪魔でしかない。
自宅の引っ越しのための荷物をまとめていて、まずは本をダンボールに詰めて行く。
これでも引っ越しのたびに処分を重ねて少なくなったはずの本はまだウンザリするほどあり、それは処分をした後でまた本は増えているからです。
電子書籍リーダーを使うようになってから紙の本を買うことがほとんどなくなり、かつ読みたい本も今はないし、本からによるインプットももういいやって気がして本自体あまり読んでないんです。
書棚に残っている本もおそらく99%は一生読まないものばかり。中学生の時に買った本も引っ越しのたびにわたしにしつこく付いて回っていて、でも捨てられない。
とりあえず、今日は本だけはダンボールに全部詰める作業を完了させた。
和室はダンボールでいっぱいになったけれど、このダンボールをすべてブックオフに渡しても将来は困らないに決まってる。だって、もう一度再読する本なんてそうはないだろうから。
やっぱり本って「時代」なんだよね。
例えば、書棚から亀井勝一郎の『青春について』って本が出てきて、
「あぁ、あぁ、これ、中学生の時に買ったやつだわ」
って思いつつ、亀井勝一郎なんて昭和初期って感じだし、そもそもタイトルが「青春について」だよ! 笑っちゃうよ! 文芸評論家が本気で青春なんてものについて必死に考えて本にしてるんだから、いまの時代じゃ、お笑いだね。
こうして本は時代がズレると価値はなくなる。
小説だって古くなる。
村上龍の『寂しい国の殺人』とか『ラブ&ポップ』が出てきたけど、古いね! いやいや、そういう時代もあったけど、今はそれを通り越しちゃってるから。
でも、読んでたときは、わたしもそれを真剣に読んでたんだよね。時代は進化しているよ、やっぱり。
さて、今回も選定にもれた本はブックオフ行き。
ブックオフ送りになる本とそうでない本を見てみたら、基本、古典は残る。でも、時代が古く感じたりするもの、文学作品でないものなんかは価値がないんだよね。
文学作品でも今生きている日本の作家の小説はつまんないから処分。本当につまんない。読んでるときからつまんなくて、買ったことを後悔させるものばかり。
古典が生き残りやすいのは、時代が思い切り古すぎて、逆にそれが新鮮だから。ドストエフスキーとか、あの頃のロシアなんておぞましい時代だから、こりゃ、すごいな!って思うわけ。
ところが自分が生きている時代に書かれたものは中途半端に古いわけよ。ガラケーみたいな感じかな。電話だったらゼンマイ回してかけるようなものだと骨董価値もあろうけどね。
あとは尊敬できない人間の本は要らない。捨てる。それもほとんど今生きている人の本ばかり。
だって、ドストエフスキーとか会うと最悪な人間かもしれないけど、会えないからね、死んでるから。写真がちょっとあるだけで情報が少ないのがいい。
ところが今生きてる人は会おうと思えば会えるし、その人がどんなことを言ったとか、ネットで情報がたくさん入手できるから、人間像を把握しやすい。すると、リスペクトってなくなるわけよ。
だから、本は死んだ人間のものが得なんだなって思った。
さて、引っ越しのたびに思うのが、図録は重いってこと。
美術館で買った図録が結構な数あるんだけど、紙が良すぎて超絶重い。これはすごく迷惑だね。
今は美術館なんて行かないけど、昔はよく行った。図録なんて買うんじゃなかったと後悔してる。だって、ああいうのはその場では感動して買っちゃっても、その後、絶対に見ないんだよね。
でも思うのは、本の入った大量のダンボールを見て、これまでこんなにたくさん本を読んでたんだってこと。これだけの物量、そして活字が頭の中に入ってるってちょっとすごくない?
本が物質だけれど、その内容は無形のもので、本当はその無形のものを吸収したら用無しなんだよ、本当は。でも愛着があると捨てられない。でも本当は捨てていいものだと思う。だって頭の中に収集されてるんだから。
あと、リスペクトがあると捨てられない。
例えば、アルベール・カミュのことはやっぱり好きだから捨てられない。ニーチェのことも捨てられない。ルドルフ・シュタイナーのことも捨てられない。
しかしながら、物質的には邪魔でしかない本ですが、どうしてこれを思い切って全部処分しないかというと、今のわたしにはまもなく2歳になる愛娘がいるからで、彼女の成長の中で親が本を読んできた人間であるかって重要だと思うから。
電子書籍だとそのリーダーに1000冊ダウンロードされていても見えないからリアリティがない。ところが紙の本はその仰々しい重圧で、かなりの説得力がある。
親が本を読まないと子も読まない。
言葉を理解し、表現することは必須であり、この能力が低いといい仕事に就けない。
だから愛娘には最低限は本を読める人間になってほしいわけで、美術館の図録もあれば小さい頃から絵も見せることができる。
親がたくさん本を読んできた人間だというバックグランドがあれば、子供から馬鹿にされない。親が本を読んでないくせに子供に本を読めと言っても、子は、
「お前が読んでねえじゃん」
って、見透かす。
これは勉強も同じであって、親が勉強できない、勉強をしてきてないのに子供に勉強しろと言っても無理なわけで。
着物着れない人が、
「最近の着物って、変よね」
なんて言っても説得力がないのも同じ。
というわけで、わたしにとって粗大ゴミでしかない書棚の本をキープしておくのは、親としての説得力を確保しておくため。それらの本を愛娘に読ませようとは思わない。だって時代が違うし、自分が読みたいものを読むべきだから。
でも、愛娘が中学生くらいになって、わたしが本を読んできた人間だってことを理解してもらえたら全部捨てる。
わたし自身、自分が昔から読んできたものが物質として書棚にあることがとても鬱陶しいからね。過去のことなんて興味ないのに、書棚には自分の過去の歴史が出来上がっていて、それがすごく嫌なわけよ。
それに要らないものを置くために家が必要になるとか馬鹿だと思うし。
現実的には人間なんて、ほとんどモノは要らない。食器だってメインで使うのが5個か6個あれば事足りる。
情報はスマホが手元にあれば全て手に入るしね。昔は情報が本とか物質に印刷されたモノでないと手に入らなかっただけの話。
なんて言いながら、今度引っ越す栃木の家かつ結美堂はわたしの人生に中でもっとも大きな家であり、初体験の庭まであって都会人としては庭ってどうすればいいのかよくわかんない。
大きな家に荷物をたくさん置くと小さい家に住んでるのと同じという阿保なことになるので、大きい家でもモノは少なくしたい。
モノは少なくていいけど、空間は広いほうがいい。
空間が広いと気持ちよくて、ストレスがないから。つまり、これが風水なんだけどね。モノが多い家って、基本的にどんな風水も通用しないから。
大きな家でなくても、最低限の、ミニマムなライフスタイルで空間を確保できているといいと思うよ。
とにかく、使わないものは処分して、その代わり空間を確保するといい。
物質に執着するって貧乏性であり、もう日本は物質から精神を得る時代に突入しているから、要らない物質は処分していいと思うよ。
物質に固執するのは中国にやらせておけばいい。彼らは日本の80年代と同じで、やっと物質を手に入れられて、それを謳歌している段階だから。
精神につながる物質を買うことに金を使うべきだよ、もう。
正直、わたしはスマホと猫がいてくれればオッケーなんだよね、生活としては。
でも、日々身長が伸びる愛娘を見て、そして身長に合わせて服が増えていくのを見ると、人間って成長のためには物質は必要なんだよね、わたしにとって本が増えたように。
そう。読み終えた本は、サイズ違いの子供の服と同じなんだよなぁ。