結月です。
こんな記事がありました。
ありがちなニュースで、痴漢って捕まったひとはどういうわけか「ストレスのせい」にしてしまいますが、ストレスと痴漢って因果関係があるようには思えないんですよね。
単に、
「女の尻が好きでたまらなかった」
ということだと思うんですが、逮捕されたら、
「仕事にストレスがあって…」
と、言い訳します。
それは同情を得るための心理ではありますが、いずれにせよ、どんなにストレスがあったとしても痴漢というのはカッコ悪い。
しかし。
その痴漢にもしストレスが本当になかったら女の尻を触っていただろうか?
とも考えてみる。
正真正銘の痴漢で、万引きがやめられない病的なもののような場合でなく、普段、痴漢などしたこともなく、常習的でない男であるのに突発的に女の尻を触ってしまったという例。
基本、男は女のお尻やおっぱいを触って嫌な気分にはならない。触れるものなら触りたい。
ただし、痴漢を犯してまで触ることは今まではなかったという男。
そんな男が、
「ストレスがたまっていた」
を理由にお尻を触ってしまうのか?
この本当の答えは、その男の心象を見なければならないので、本当のことは誰にもわからない。なぜなら、他人の心象とは覗き見ることができないからで、だから警察も証言や告白に頼るしかない。
女の尻を触りたいという根源的な欲望はあるとして、それがストレスによって社会的防波堤を突破してしまう。
「まあ、なくはないかな」
とも思う。
だから、正確にはストレスがたまって女の尻を触ってしまったのではなく、
「女の尻が大好きで、願わくば盛大に触りたいけどそれは社会的にできないことはわかっている。でも、お尻が好きで好きでたまらない。痴漢はこれまでしたことがないけれど、お尻が好きなのは事実だ。認める。ただ痴漢をしてしまったのは日々のストレスがあって、さらに今日は嫌なことがあった。イライラしていた。自暴自棄になっていた。だから今振り返れば、自分の殻を破りたかった。職場では本当に自分をさらけ出すことはできない。職場の自分は偽りの姿なんだ。いつも自分に嘘をついて生きているんだ。だから、どこかで本当の自分、そんな剥き出しの自分をこの社会でさらけ出したい! そんな気持ちが突発的に女の尻を触ることでタブーをやらかしてしまったのかもしれない」
と、男はこう告白すると、まあ、ちょっとは納得できる。
やはり、本質的に女の尻が好きだということを認めると、それはしょーがねえなって気にもなる。
さて、
「女のお尻はそこまでして触る価値があるものなのだろうか?」
と考えてみる。
女性諸姉にしてみれば、
「お尻なんて触るの、馬鹿じゃない?」
と思うに違いない。
それは確かにそうで、わたしもそう思うけれど、世の中には「お触りパブ」みたいなものもあるし、性風俗店では痴漢プレイなんてものもある。
つまり、女のお尻にはある程度のニーズがあって、そういう店ではお尻は金銭的価値すら生み出している。
これはすなわちフェティシズムであり、お尻への偏愛と言える。
それがおっぱいになるか脚になるか、それ以外になるかは趣味の差だけれど、根底にあるのはフェチな偏愛であって、どうにもこうにもあまりに根源的な欲望すぎて、そこにドライな感覚は通用しない。
こうした偏愛は実は芸術の源であって、谷崎潤一郎という変態作家はそんなフェチで小説を書いていたし、フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーは女の脚が好きで好きでたまらなくて、自分の映画で恥じらいなく脚フェチを全開にした。
京都画壇では、舞妓の絵ばかり描いている舞妓フェチの画家は昔からいるし、マゾの語源であるマゾッホの小説では鞭打たれるには女が毛皮を着ていたほうがいいというこだわりがある。
そう考えると、痴漢と芸術の根っこは同じところにあるらしく、フェティシズムがないとどうも芸術は成り立たない。
ミロのヴィーナスはヨーロッパの美の象徴だけれど、あれほどの女体を石で彫ろうとすれば、作者はよほど女の体を観察していなければならず、間違いなく女体フェチだったことでしょう。
となれば、この世にフェティシズムがなければ、なんとも殺伐としたものになる。
あるブティックに素敵なハイヒールがあった。思わずそれを欲しいと思えるのも、あれは女の足フェチの男が、日々女の足のことばかり考えているようなデザイナーとなっているからこそハイヒールは存在しているもので、美を凝縮させるには変態的にフェチでなければならない。
だから、フェチな変態によって思いのほか、この世は魅力あるものになっている。
しかし、お尻フェチの痴漢がどうして評価されないかというと、女の尻への欲望が自分の中でしか消費されていないからで、外へ向かって何かを生み出しているわけでないから。
もし女の尻が好きでたまらないなら、下着メーカーにでも就職して、ショーツを開発したり、それを営業したりすることに専念すれば尻フェチはたちまち社会的なものになる。
フェチに限らず欲望とは自己の中で完結しては評価は得られない。その欲望を対社会として発揮し、人々が共感し得るものをクリエイトするとたちまちそれはニーズになる。
偏愛であることこそ才能であり、多くのひとは偏愛であることができない。
さて、わたしは女のお尻にはそれほどの価値は感じていませんが、猫のことが大好きで、猫に偏愛です。
尻尾をピンと立てたうちの猫のお尻を痴漢さながらによく撫でまわしている。
猫のお尻の毛はひときわ柔らかく、触ると心地いい。
しかし、猫好きというのは病的なところがあって、その可愛がりとなると、魂がとろけてしまうほどのもので、とにかく猫が好きで好きでたまらない理性を超えた陶酔がある。
思うに痴漢をするような人間は猫を飼うと痴漢はしなくなるのではないか。
猫の可愛らしさと溶ける魂の快楽に比べて、女の尻なんかどこがいいんだろう?ってなりますからね。