結月です。
世の中、「こだわり」があたかもいい意味で使われているけど、本当はそうじゃないってお話は以前にしました。
人間がどうして生まれてきて、なぜ生きているかという問いかけに答えることは難しく、紀元前から哲学者がずっと考えてきたテーマでもあるし、今でも答えは出ていません。
具体的な答えで納得できるものでないし、時代によって価値観も変わるので明確な答えはずっと見つからないのではないでしょうか。
ただひとつ言えることは、死ぬまでの間にできるだけ余計な「こだわり」は処分して自分からなくしてしまうってことは生きる目的ではないかと思うんですよ。
「こうでなきゃいけない!」って強く思うことも他人目線からだと、どーでもいいことだったりするし、そのこだわりのせいで他人が迷惑することもある。
しかしながら、それは何も考えず、ただボーッとしていることではない。意思もなく、何を訊かれても、
「特にないです」
とか、
「普通でいいッス」
とか、
「どっちでもいいです」
というのも困る。
でも、
「カレーは絶対に中辛がうまい!」
みたいなことを押し付けられるのも困る。
つまり、他人にとってどーでもいいようなこだわりはなくした方がいいってことなのかもしれない。
しかしながら、専門性を高めるには徹底的にこだわらないと進化しないところがある。
「うまいラーメンは、こうやって作るべき!」
という強烈なこだわりがあることによって個性的なラーメンは誕生する。
そのラーメンがすべての人に受け入れられるかは別として、とにかくこだわらないと物事は進化しない。
だから、こだわった方がいい場面もあれば、こだわらない方がいいこともある。
でも、ラーメンを極めたっていうのは、おそらくそんなにラーメンにこだわりがなくなったラーメン屋の姿なのではないか?と思う。
こだわっているうちはまだまだケツが青くて、そのこだわりを吐くそのクチバシは黄色い。
さて、ともかく専門性を求められるものは素人がニワカ知識で挑んでも猿知恵しか得られないからやめておいた方がいい。
なので、専門性が伴う買い物をするときは、その商品にこだわった人に任せると間違いがなかったりする。
わたしは買い物をすることがほとんどなくて、それは欲しいものもないからだけど、稀に買い物でなくても専門性を伴う案件などに遭遇し、そのときは自分ではこだわらず、専門的にこだわっている他人に任せることが多い。
あとは好き嫌いで最終的には判断している。
「餅は餅屋」って言葉の通りで、餅は餅屋に任せる。
思うに生半可なこだわりが一番良くないのだろう。
ニワカ知識でこだわったり、どーでもいいようなことにしがみついていつまで経っても先に行けなかったり、誰も気にしていないことを自分で勝手に気にするようなこだわりとかね。
だからつまんないことにはこだわらない方がいいわけで、一方で自分で何かやろうとして、それにこだわり切る人って逆に少ない。
徹底的に、徹底的にやり尽くして、真剣に、思い切りそれに取り組んでみるとか、そこまでやる人は少ない。
こだわり尽くしたら一流になるのに、中途半端な、表面的なこだわりが多いって気がする。
誰もできないくらいこだわったらちょっとおもしろくなる。多分それってこだわりではない別のものなんだろうな。
こだわりって言われている時点で、それは中途半端なもので、やっぱり悪いものなのかもしれない。
出世魚みたいにこだわりを突き抜けて、別の何かになっちゃったらすごい。そういうものを求めた方が良くて、そこに達成した後にもおそらくふた通りある。
ひとつは、それを死ぬまでやり続けること。まだまだ、もっともっとと決してやめずに命がある限り続ける。
もうひとつは、すべてを達観して、それをやめてしまうこと。無色透明になることを求める。
これはどちらがいいのかはわからない。
ただ、どちらもこだわりを突き抜けたもっと頂上に近いようなものなんだろうな。
ともかく、こだわりっていうのはないほうがいい。
こだわりでやってる物事って、実は大したことないからね。