結月でございます。
昨年の年明けに生まれた愛娘を1年8ヶ月ほど眺めていると、人間に関していろんなことに気づく。
例えば、「怒り」とは後天的なものだということ。
赤ちゃんにはどうやら「怒り」がない。2歳近くになっても「怒り」はない。
今のところ見受けられるのは、「喜び」「笑い」「悔しさ」といったもの。「悲しさ」もなくて、それはやりたいことができなかったときにありそうだけれど、悲しさではなく、悔しさとして現れている。
おやつをもらえなかったりすると、額を床に擦り付けて悔しがっている。もらえなかった悲しさはない。
悔しさは自我が芽生えたことで生産された感情だと思う。だって、乳児の頃はそれを表現することがなかったから。
つまり、人間は生まれたときは、悲しみを持たず、悔しさもない。怒りはもっと先の感情だ。
おそらく「怒り」は、人間関係を得ることで発生するのだろう。
大人社会を見れば、怒りに満ち溢れている。
会社に通えば、同僚や上司に怒りの感情を持ったり、安倍政権への怒りもあったりする。もっと規模が大きくなると、パレスチナのイスラエルへの怒り、イスラエルのパレスチナへの怒りは戦争を巻き起こす。
人間関係において、他者を得たとき、その摩擦が怒りとなる。
考えてみれば、たったひとりで生活して、大して人とも会わなければ人間は怒ることがない。怒りとは矛を持つことだけれど、それを向ける先がないのだから。
ということは、人間関係、つまり対人関係を減らせば人間は怒らなくなる、ということだろう。
「あいつのことが気に入らない」
そう思うから、人は怒る。
でも、冷静に判断して、怒ったところでその物事は解決するのだろうか?
「怒り」は諍いを生むだけで、いい結果をもたらすだろうか?
怒らなければ、相手に自分が困っていることが伝わらないといことがある。怒ることで相手は「そういうことだったんだ」と気づくことはある。
だから、気に入らないことを是正するために、普通に話しても伝わらない相手には怒りのエネルギーがあったほうがいい場合もある。
しかし、怒ったほうも実に後味が悪い。
そうであれば、怒りは持たないほうが得策かもしれない。
ただ侵略戦争においては、怒らなければ自分の安全を守れない場合がある。
そんな大げさな事態は、そんなにあるものではない。多くは会社か家族の人間関係で「怒り」は用いられる。
小さな子供を見ていて可愛らしいと思うのは、「怒り」がないからなのかもしれない。
怒らないから安全な存在。
そして、やりたいことができなくて悔しがっている姿も可愛らしい。
ところが、もし悔しがって、その次が「怒り」の表情になり、キッと睨まれると可愛らしさは瞬時になくなり、恐ろしくなる。
愛されるってことは、「怒り」の感情をなくす、もしくは少ない性格なのかもしれない。
もし自分に「怒り」があるのであれば、同時にひとから愛されない人間になってるとも言える。
愛されないと幸福にはなれない。
なのに、みんな幸福を得るために怒っているんじゃないだろうか。
そのスパイラルだと一生、幸福を感じることはないという理屈になる。