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人を嫌いになるなら、覚悟してやれよ!

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結月です。

深作欣二監督の『バトル・ロワイアル』は今観ると滑稽で、あまりのB級ぶりにちょっと笑ってしまっったけれど、深作監督の作品は結構好きです。

しかし、クラシック音楽の使い方など、わかりやすいほどありきたりで、B級感を高めていました。

そんな映画でもビートたけしが北野映画そのままのような役どころだったのですが、映画の最後で、

「人を嫌いになるなら、覚悟してやれよ」

みたいなセリフを言います。

映画はB級だけれど、なかなかの名台詞。こういう一言があると、映画はグッと感動的なものになります。

映画では高校の先生役のたけしが自分の娘に携帯電話で言うセリフ。映画の設定で、父であるたけしは娘から毛嫌いされて家で居場所がないって感じなのです。

さて。

映画の設定はいいとして、わたしが思うに、

「みんなさ、結構簡単に人のことを嫌いになってませんか?」

ってこと。

誰かを嫌いになるってすごく簡単なんだよね。自分の感性に合わないとか、仕事で合わないとか、生理的に合わないとか、ともかく嫌いになるって深く考えてそうなるのではなく、かなり浅はかなところ、表層でそうなるんですよ。

だから、嫌いな理由を尋ねてもあまりはっきりしなくて、

「嫌いだから嫌い!」

みたいな子供の喧嘩の様相になります。

本来、人間は多面的であって、そのひとの嫌いな側面って、そのひとの一つの側面にすぎないわけです。

会社では嫌な人でも、実は家庭ではすごくいい人だったりするし、反対に子供に嫌われていても会社では高評価だったりします。

ある仕事は全然できなくて、一緒に仕事すると面倒だから嫌い!って思っても、実はその人は他のことをやらせるとものすごい技量を持っていて、その分野ではとても使える人間かもしれない。

なので、誰かを嫌いになるのはわりかし自分勝手なところがあって、しかもそれを決定しているのは何となくな感覚だったりします。

逆に言うと、全人格的に好きになれる人なんてこの世にはいません。

どんなに好きな人でも、その人の全てを知ったら嫌になることだってありますから。

好きでいられるのは、自分で勝手にその人の好きなところだけ見ているに過ぎないんです。これは嫌いな人のことを嫌いな部分だけ見ているのとまったく同じなんですよね。

さらにややこしいのは、人間関係では「誤解」も絡んでくること。

そんなつもりで言ったわけじゃなのに誤解されて嫌われるとかね。相手はそんなつもりで言ってないのに一方的に自分が誤解して相手を嫌ってるとかね。

そう考えると、大抵の「嫌い」っていう感情は、いい加減なものなんですよ。

大事な人を殺した殺人犯への憎しみとか、そういうのは嫌いを超越したものなのでちょっと違いますけれどね。

あと、ありがちで、かつ注意しなければならないのは、会ったことのない人間を嫌うこと。

その対象は得てして、芸能人だったり政治家だったりしますね。

そこまででなくても、仲間内の見聞や噂話で「嫌い」を刷り込まれることだってよくあることです。

人間は過ちを冒す生き物なので、悪いことをしちゃうことがある。それを拡大して取り上げて、その人の全人格を決定づけて嫌いになることもありますね。

ただ、嫌われる人にもちゃんと原因があって、例えば毎度約束を守らないとか、言ったことをちゃんとやらないとか、自分勝手な振る舞いが多すぎるとかでしょうか。

その人の悪い一側面が回数を繰り返されることによって、悪い多側面と同等なレベルになってくると嫌われますね。

というように嫌われるにも理由があるのだから、嫌いになってしまうことも仕方がないといえば仕方がない。

さて、こういったことを把握した上で、

「人を嫌いになるなら、覚悟してやれよ」

という名台詞。

そして、最初に述べましたが、みんな、人を簡単に嫌いになってませんか?ってこと。

その人のことが嫌いになることは心の中という内的環境では仕方がない場合がある。しかし、本当に嫌いになってしまったら、実は自分のほうが失うものが多いというリスクを知るべきです。

社会は様々な人間の混合体なので、全てを好きになるのは無理です。好きなものを抽出することができてもそれだけで生きていくのは無理です。

そんな環境の中で、誰かを嫌いになると、嫌いになった相手からは何も得られなくなる。

いくら嫌いな相手でも仕事ではどこかで手伝ってくれている場合もあるし、手伝って欲しくはなくても組織上、その人がやる仕事があるおかげで自分に仕事が回ってくる場合も多々ある。

誰かを嫌いになると、その相手もその感情を察知するので、相手も自分に対して警戒するようになります。警戒されると、頼まれごともやってくれなくなったりする。

多面的である人間の一部を嫌いになってしまうことは、嫌いになった部分以外のその人の問題ない人間性も否定することになってしまう。つまり嫌われた相手はそう捉えるから。

となると、その人の嫌いでない部分も失ってしまうということになるわけです。

これって、損失としては大きすぎるんですよ。

わかりやすい例を挙げると、夫婦の間で、亭主がタバコを辞められない。子供が生まれたのにタバコを吸っている。自分もそのタバコの臭いが我慢できなくて日々、イライラする。そのイライラが募って、ついに離婚してしまう。

たかがタバコを思うでしょうが、夫婦が離婚する原因なんて些細なことの積み重ねです。よく考えたら解決できて、かつどーでもいいようなことにこだわって離婚するケースが多いです。

そこで離婚してタバコの煙からは解放された。でも、亭主がいなくなっていきなりシングルマザー。たちまち食っていけない。小さな子供がいて満足に仕事もできない。そして経済的に困窮し、子供にちゃんとした食事をさせられなかったり、十分な教育を与えられなかったりする。その喪失を天秤にかけたら、タバコの煙のほうがマシだったということってあるんですよ。

タバコの煙なんて家を分煙化するように交渉するとか、今では電子タバコで煙が出ない技術があるのだからそれが開発されるまで待てばよかったとか、やれたことってあるんですよ。

ところが亭主の人間性をタバコという一側面だけを嫌いになって、全否定してしまったところにミスがあるのです。

そうこう言う自分だって、人間として欠陥は必ずあるし、亭主だってそれを我慢していたのかもしれない。それなのにたかがタバコで離婚してしまった。

とまあ、これは単純な例えですが、人を嫌いになるには覚悟してやらないと嫌いになったことによって自分がどん底に落ちる可能性がある。

人を嫌いになると言うことは、それくらい大きな判断なのですよ、本来は。

でも、みんな、簡単に人を嫌いになってませんか? 3度目ですね、これを問うのは。

人を嫌うのはそれくらいリスクがあるのに、覚悟してやってないでしょう?

自分がその人を嫌いでも、その人は自分以外の人からはたくさん好かれているかもしれない。すると、その人を嫌うことで、自分がたくさんの人から嫌われてしまうことって普通にあります。

かといって、嫌われないように他人の目線を気にして生きるのも愚の骨頂で、大ヒットしたように「嫌われる勇気」も必要です。でも自分から嫌う必要はない。

嫌われるほうが実は強い。

人間は嫌われてでも自分を押し通して、何かを達成したほうが強くなる。そして評価も得られる。

ところが人を嫌いになったところで何も達成できないんですよ。

ただ嫌いっていうだけで、自分も気分悪く、機嫌悪く、嫌いな相手のことを「嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ」と頭の中で何度も言い続け、何も得るものがない。

だから、人を嫌いになるってことは、自分の腹を切るくらいのつもりでやらないと駄目です。それくらいの覚悟でやらないといけません。そして嫌いになった以上は、普通だったら失ってしまうことを超越するほどの何かを成し遂げないと意味がないです。

そんな覚悟がないのなら、容易に人のことを嫌いにならないのがいいですよ。

人を嫌いになって、自分が潰れるだけなので。

それにね、人のことを嫌いになるエネルギーと時間があるんだったら、自分のことをやったほうがいいです。

自分だって欠陥人間なんだから、それを克服することに邁進する。

この世に完璧な人間はいないので、誰しもが嫌われる要素を持っている。

だから、人のことを嫌いだっていうあなたが実はどこかで嫌われてるんですよ。

 

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