結月でございます。
メディアっていうのは、要は情報の媒体なわけで、例えば、
「私はあなたが好きです」
という情報を伝えるのに、どの媒体を選ぶかってことになる。
昔だったら、便箋を封筒を買ってきて、万年筆で「私はあなたが好きです」と書いていたと思う。それを郵便という流通に乗せて投函する。
手紙が媒体なわけ。
今だとそれはLINEかな。メールもあるかもしれないし、メッセンジャーかもしれない。もしくはスマホでその告白を動画に撮って、YouTubeにアップするとか。
だから、情報そのものは人間が発するものだから、いつの時代だって根本的には変わらない。ところが媒体は時代によって目まぐるしく変わる。
本が売れないと言われてもう20年くらいは経ってる。それは本に書かれている情報が悪いのではなく、本という媒体が時代に合わなくなってきたせい。
わたしはかなり本は読んできたけれど、文学作品はもうここ数年、ほとんど読まなくなってしまった。読もうと思ってもなんかつまんなくて、退屈しちゃって、途中で辞めてしまう。
多分、小説というメディアの形が古くなって、それに付き合いきれなくなったのだと思う。あとは、文芸誌など立ち読みするとゾッとするのは、やっていることがあまりに古くて、昭和のままで、まるであばら家に住む老人を見るような気になるから。
小説らしい小説ばかりで、だから小説を読まなくなった。つまり、電車の中で誰かが本を読んでいて、その字面を見ると、
「ああ、この人は小説を読んでいるんだな」
ってわかってしまう。これがつまらない。一体、何を読んでいるんだろう!?と感じさせるような字面のものがあればおもしろい。
そういうことをやらなくちゃいけない。
今のようにメディアの形式が多種多様になると、古いメディアは衰退する。
小説はせいぜい三島由紀夫までで、それまでの小説は力があって、とてつもない日本語を生み出していた。それは小説というメディアが占める割合が高かったからで、あとはせいぜい映画とかテレビしかなかった。
映画も黒澤明などが活躍できた時代は、映画というメディアが大きかったからで、今みたいにテレビもあれば、YouTubeもあり、スマホで個人が撮った映像がSNSで流されたりしていては、占める割合が低くなって、当然、力はなくなる。
実のところ、情報そのものはあまり変わっちゃいない。
ところが媒体の数が凄まじいから、情報は多く見えるし、事実、数だけは多い。でも本質的な情報はそれほど多いわけではない。
種類が増えると散漫になるから、内容や表現技術は低下してくる。総量は変わらないのだけれど、小分けにされすぎてしまうと希薄なものが数多いという状態になる。
どうも薄いお酒を量だけたくさん飲んでいるような感じ。
ところがそれでもお腹いっぱいにはなってしまう。
そこが問題なんだなって思う。