結月でございます。
一昨日から二日半ほど栃木。
栃木では週一回は過ごしているから、「栃木弁」というものが随分わかってきた、というか、こういうイントネーションなんだと感覚的に捉えられてきた。
と言っても、栃木弁は話せない。
言語学者はどう調べてるか知らないけれど、栃木弁は東北弁なんだろうな、分類的には。
地理的にはすぐ上に福島があるし、それは当然と言えば当然で、でも東北弁とも違うと言えば違う。
栃木を知らないひとにとっては、ガッツ石松が栃木弁だね。
しかしながら、栃木では県南や県北ではまたイントネーションが違って、佐野に行ったときは、同じ栃木なのに、
「あれ? 違うね」
って思ったよ。
さて、栃木では1歳7ヶ月の愛娘シャンシャンと過ごしていた。シャンシャンは日本と中国のハイブリッド。なんか言葉っぽいものをよく喋っているけど、日本語のときもあれば、中国語の発音だなってときもある。
まあ、日本語と中国語は普通に話すようになる。
そこで思ったのは、
「外国語は大人になってからじゃ、あまり意味がない」
ってこと。
外国語っていうのは、道具だからね。要はコンセントと同じなんだよ。海外に行ったら、コンセントの差し込み口が違うから日本の家電製品は使えないよね。だから、海外対応のものを持ってなくちゃいけない。外国語ができるってそういうことです。
外国で生活したり、交渉したりするとき、言葉が道具になるだけのこと。
日本人って、学校で英語を習ってもほとんどの人が話せない。それには様々な理由があるけれど、外国語はツールだっていう認識がないのはひとつの理由だと思う。
さて、シャンシャンは日本語と中国語は自然に話すようになるのは確定していて、当然、英語くらいは話せるようにさせる。あとはフランス語くらいできれば、将来、飯を食うには困らないんじゃないかな。
4ヶ国語話せれば、大体、世界のどこだって行けるし、中国語だけでも世界人口の4分の1を網羅できる。
そんな外国語はね、子供の頃に身につけないと駄目です。よく大人になってから、英語とか習っちゃうひと、いるよね。あれ、ほとんど意味ないんで。
だってさ、大人になって外国語を習っても、使うシーンって海外旅行に行ったときくらいだもん。
つまり、大人になっているってことは、仕事が決まっちゃってるわけよ。だから、外国語を習ったところで、それってもうほとんど生かせない。
子供の頃から外国語を身につけていれば、それをもとに就職したり、起業したりして、外国語のツールをいろんなシーンで活かせる。
大人になって外国語を話せないと、話さなくて済む環境が決定しているから外国語を話す仕事をしようと思っても無理なんだよね。仮に猛勉強したって、子供の頃から話して育ったひとにはまるで敵わないし。
なので、大人になってから外国語を勉強してもそれを使うシーンはほとんどないです。
あと、言葉って、それを話せないと生活できないとか、強制力がないと覚えない。例えばフィリピン人が英語を話せるのって、フィリピンじゃ英語が話せないとろくな仕事がないからです。
まあ、現地で生活するようになれば、嫌でも覚えてくるけどね。しかし、日常会話ってそんなに複雑でないので、生活するだけの言葉って買い物とか飲食店で注文するとか、その程度だから、それ以上は話せるようにならない。
じゃあ、その程度の会話能力でレベルの高い仕事ができるかっていうとできるわけがない。
というわけで、やっぱ外国語は子供の頃から叩き込んでないと使い物にならない。それも日常会話だけでなく、文学作品とか読ませて、しっかりとした言語能力がないとね。ほんと、日常会話って単語数では800単語くらい知っておけば事足りちゃうんで、実は大したことないです。
と、そんなことを1歳7ヶ月の愛娘を見て思っていて、ちゃんと大人になって一人で生きて行けるように、一人で飯が食えるようにその能力となる教養だけは身につけさせようと思ってます。
なので、バイオリンとかは趣味程度にはやるかもしんないけど、超一級の奏者にでもならない限りは食っていけないし、食っていけないものに大事な時間を費やして必要なものを得られず、将来、飯が食えないダメ人間になっても困るからあんまりやらせる気はないです。
でも、音楽や芸術には触れさせようと思ってるけど。
だって、外国語なんてこれからAIや自動翻訳機が進化すると、それほど大きな能力とも言えなくなるから。
要は奥行きのある文化を知っておかないと、ただ外国語ができるだけじゃ、外国へ行っても相手にされないからね。