結月です。
よく自分の仕事が肉体的にハードだとか、就労時間が長いとか、その辛さを語るひと、いますよね。
キツいとか大変とか言っているわりに、些か自慢めいたものも感じさせるその語り。
でも、その仕事が好きかというと絶対にそんなことはなく、概ねやりたくないと思っている。
つまり、仕事があまりにおもしろくなく、ハードなものだからそのストレスからひとに自分がどんな大変なことをしているか話したくなる。大変なことをこなしているからこそ、自分がすごい人間だと思って欲しい、そんな願望が見え隠れするわけです。
それは人間の感情として大変自然なことで、そうでもしないと気が収まらない。
「もう休みなしで、1週間以上も会社行ってます」
だとか、
「今日も帰り終電、明日は朝から出張」
だとか、
「休みだったはずの土曜、出社になりました」
だとか。
こう言われると、聞いているほうはとりあえず、
「大変だね!」
だとか、
「体に気をつけてね!」
だとか、
「ほんと、すごいよ、あんたは」
だとか、話を合わせる。
でも、思うんですけど、やりたくもない仕事でハードって、何の評価があるんでしょう?
家族や子供を養わなければならないといった事情があればまだわかる。美輪明宏の「ヨイトマケの唄」の世界です。でもヨイトマケしかないなんて昔の話で、今はわざわざそんなことをしなくてもいい。
ともかく、やりたくもない仕事がハードだなんて、ひとに話したところで評価にはならないし、リスペクトの対象にもならないんです。
そんな時間があるなら、それを脱するための転職活動をするとか、転職に必要なスキルを身につける勉強を本気でやるとか、そういったことに使ったほうがいい。そしたら先へ進めるじゃないですか。
今は一昔前みたいに仕事はハードなものしかないっていう時代でなくなりました。
楽をしようという意味でなく、仕事に楽しみを伴える時代になったということです。
それどころか、楽しくないと稼げない時代とも言えます。すなわち、楽しくない仕事は、すべてブラック化する時代。
ですから、仕事のハードさを憂いを帯びた表情で、しかしながらちょっと「こんな自分ってすごい?」みたいな話をしていると先は暗いです。そういう時代になったんです。
そして、ハードなだけの仕事は、ひとを成長させません。ただハードなだけです。
わたしも随分昔、渋谷のデパートの青果売場で肉体労働をしていました。早朝6時半から夜の7時までの勤務。重い台車を1日に何度も引き、商品を陳列。立ちっぱなしで、1日も休みがなく、連続勤務は300日を超えていました。家に帰って食事をするも、箸を持ちながら眠ってしまっている。そして起きたらもう朝で仕事へ行く。まるで生きた心地がしなかった。
この時の経験で得られたものは特にありません。むしろ、時間を無駄に使いました。あのフレッシュな年齢のときに、あんな生産性のない仕事に関わった時間は無駄どころか損失です。
もっと将来性があって、勉強になり、次につながる仕事に時間を費やせばよかった。
唯一、得たものと言えば、「無駄だった」という結論だけです。
人間は死ぬまで成長できるのだから、成長につながることに時間を費やすべきです。そういう仕事をやるほうがいい。
いくらでもチャンスはあるのだから、あとは「やる」のか「やらない」のか、だけです。