結月でございます。
よく思うんだけど、「こだわり」ってなぜか、いい意味で使われるよね。
こだわりの食材とか、こだわりの職人芸とか、そういったように。
でも、「こだわり」って悪い意味だからね。
三省堂の大辞林ネット版では、こだわりという意味は以下のように書いてある。
とまあ、こんな感じなんですね。
よく使われるのが飲食店ですよね。こだわりの食材でこだわりの料理を作ったみたいな。
わたしはこだわりを打つ出すような店には基本的に行かないです。なぜなら、
「鬱陶しいから」
料理はおいしければよろしく、おいしいかおいしくないかは食べたひとが感じればいいだけなので、店の方から食べる前に、
「どこそこ産の何某です」
なんて、要らぬ情報は提供されたくないし、その食材を入手するのに苦労したとか、でもこだわりがあるからここは譲れませんとか、そういう店はわたしはパスです。
だから、わたしは和民みたいなこだわりをいちいち説明しない居酒屋とか、美味ければなんでもオッケーな中国人がやっているガチな中国料理店とか、そういうところしか行かないんです。
つまり、こだわると世界が狭くなる。
辞書の一番目に書かれているように「心が何かにとらわれて、自由に考えることができなくなる」からで、その食材にこだわってしまった料理店は、もうそれ以上の料理は作れません。頑なになりすぎて、自由な発想がなくなるから。
そして、二番目の意味のように普通は軽視されがちなものまで好みを主張する。クー!こういうの、多いよねっ! 料理店に限らず、いろんなところで!
三番目の物事が滞る。わかる、わかる。こだわられると、物事がスッとスムーズにいかない。どうでもいいことにこだわって判断が遅れ、本来は簡単にできることまで拒絶されると、仕事の連携プレイなんかでも滞りが出てきてしまう。お役所仕事とか、こういうの、多いよね。
あと、四番目の意味も大事だよね。
他人からの働きかけを拒む。そうそう、こだわるとそうなる。
日本って、こだわりの国民性があると思う。自前主義っていうかな。だから、事業も横に繋がりにくい。
最近、コラボとか言われるけど、日本のコラボってどれもそれぞれの特徴をくっつけただけで、合体することで新しい何かが生まれてるわけじゃない。コラボしてるって言っても、ちゃんと縦の線が入っていて、コラボする企業と自分をはっきりと分けている。
それは日本の自前主義があるせいで、それがいいと思ってるのかな?
自前主義でオリジナリティを高めることはできるはできるけどね。でも、そんな自前主義で日本の産業は、中国の下請けになる、っていうか、なってる。
中国人って考え方がとても資本主義だから、自分のところにない技術はゼロから自前で開発する無駄はしないで、その技術を持っている会社を買収したり、提携したりして自分が作りたいものを作る。新幹線って典型例だけどね。
つまり、こだわってないわけよ。
こだわってないから彼らは強い。どんどん吸収して大きくなる。
でも、日本人ってこだわるからさ、横につながろうとしない。ということは、大きくならずに、ニッチな技術だけを深めていく。となると、グローバルな経済に参加できないところに、中国のように横につながる思考を持ったところが発注をかけてくる。彼らはその品物さえ手に入ればいいわけで、自分にないものを横につながればいいって考えているから。
そうなると、日本の閉鎖的な自前主義って、下請けにしかならないんだよね。
そう言えば、アップルという会社も同じで、彼らはすべてを自社開発しようなんて思ってない。この部品はあそこに頼んで、あの部品はあそこでって感じで組み立てる。プロデュースだよね。
そこに日本の技術はニッチで、下請け化しているけど、世界のアップルに日本の技術が使われているっていう日本礼賛になるのだから、日本人って大丈夫かな?って思う。
と、このようにこだわりがあると横につながらないんだよね。
横につながらないものはダイナミズムが出ない。そりゃ、閉鎖的なところで小さなものしかできないから。
なので、料理だって、こだわってるとさらに先には行けないわけよ。
と、いきなり手前味噌なことを言い出すと、女子チーズを企画して始めたわたしはこだわってない。クリスマス島の塩を使ったりしているけど、こだわってない。
なので、わたしがこだわっていると勘違いされてほしくないとこ、あるんです。
クリスマス島の塩は確かにおいしい。これをチーズに使ったらおいしいと直感したのも確か。でもこだわってない。
だから、これよりもおいしい塩があるなら、クリスマス島のものでなくても使ってみたいと思う。
クリスマス島はひとつの答えであって、すべてではないから。
わたしは自分の世界だけで完結させようなんて思ってないんです。自分以外のもので「これは!」と思ったら、すぐに取り入れます。「これは!」って思えるものが少ないから、こだわってるように見えるのかな?
でもさ、人間って、いかにこだわりをなくせるかってところが修行なんじゃないの?
だって、こだわるのって簡単だもん。
結婚相手の年収は最低でもこれだけ!みたいなこだわり。これも要は自分勝手なだけだし。
こだわりの食材で作った俺様料理とかさ、ただの閉鎖的な自画自賛だよね。
自我の執着をなくして、広い世界を認めることが大事であって、すなわち多様性を認められる度量だよね。
物事の分別はこだわりではなく、善悪とか、美意識であるほうがいい。
映画監督の小津安二郎は、
「どうでもいいことは時流に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う」
って言ったけど、うん、小津さんはやっぱ、さすがだなぁ。
つまり、みんな、どうでもいいことにこだわりすぎてんじゃないの?
ほんと、こだわるってダサいし、ウザいから。
そして、こだわっちゃうと変化できなくなるから。
いやー 変化してないひとって会ってもおもしろくない。
超久しぶりに会って、変わってないひといるよね。会ったときは、昔話に盛り上がるかもしんないけど、新しいものを得られないと、次に会うのは数年後でいいかなって思っちゃう。
ところが変化しまくって、常に代謝しているひとは頻繁に会ってもおもしろいんだよね。いつも新鮮だから。新鮮でいられるって、こだわってない証拠。
とにかく、こだわりをなくせるようにするのが人間修行。
でもこれはノンポリになるのとは違うんだな。なんでもオッケーですってことじゃない。
小津さんみたいに「芸術のことは自分に従う」って感じで、自分に従って生み出したものが最上級のクオリティで、それが広くから支持されるものがいい。
こだわりから大きくかけ離れた真理みたいなものかなぁ。
難しいけど、真理ってこだわりをなくさないと見えてこないんだよね。普通は真理はこだわりを凝縮させ、こだわって、こだわって、こだわって、こだわりまくって、まるで蒸留を重ねてアルコール度数を高める蒸留酒みたいにして得るものって思われるけど、違うんだな。
こだわりをなくした俯瞰的な視点がないと真理は見えないから。
蒸留酒的なこだわりって、突き詰めれば突き詰めるほどホロコーストとか、そういうものになってくる。
こだわりをなくした先に自由があるわけで、その自由な発想から得られたものが真理に近いのかもね。