結月でございます。
今日の東京は34℃。昨日に続いて、暑いですね。
わたしは仲御徒町駅から結美堂まで来ていて、徒歩にして7分くらいでしょうか。
夏生まれのくせに夏が猛烈に苦手で、暑いのが本当に駄目なのですが、その徒歩7分で汗だくになってしまいます。
結美堂の冷凍庫には、ガリガリ君が備蓄してあって、ここにたどり着いたらガリガリ君で一気に冷却。
暑いことに悪態をつくことをやめた
さて、夏が苦手なものだから、子供の頃からわたしは夏に悪態ばかりついていました。
しかし、数年前から夏にそれほど嫌悪感は持たなくなり、暑さに対して悪態をつくことはほとんどなくなったのです。
それは暑いことに文句を言っても、天候のことだし、地球規模で動いていることだし、文句を言ってもそれで改善されるものでないし、文句を言ったところで涼しくなるわけでもない。
そんな当たり前のことを確信すると、暑さに対して悪口を言うのが時間の無駄で、何一ついいことがないってことがわかりました。
暑さに対してドMになろう!
暑さからの不満を解消するにはいろんなやり方があるでしょうが、暑さに対してドMになることがいいのではと思いました。
その不快さを嫌悪するのではなく、ありがたく頂戴する精神ですね。
そうすると容易にも暑さがそれほど憎たらしいものでなくなってくる。憎たらしくないものには悪態をつくことがないので、クールな人間でいられることができます。
悪態がもたらす不愉快
暑いことに対して愚痴っぽく暑さを恨む言葉を発してしまいたくなりますが、その言葉は聞いている方の身となれば、意外と不愉快なんですよね。
どうすることもできないものに対して愚痴られても、やっぱりこちらもどうすることもできない。でも一応、相手をなだめるためにもその愚痴に同調して、自分も同じような愚痴を言わなければならない。
誰しも言いたくなる暑さへの愚痴ですが、これって上司への悪口と違って、笑いに転化できないんですよ。
愚痴や悪態はジョークと裏表でもあるから、おもしろい毒舌というジャンルがある。
ところが暑さだけはどうにもならない。
否定ではなく、肯定に捉える
きっと暑さに対して、「暑い、暑い」と愚痴っぽく言うのは、おそらく暑さ以外のこともネガティヴに捉えて生きていると思うんですよ。
わたしも暑さに悪態をつかなくなった頃からは肯定的に生きるようにしたと同じ頃で、それ以前はどんな現象にも二面性、またはそれ以上のものがあるのに否定的に捉える、つまり保守的な生き方をしていました。
すなわち、暗い性格ってことでしょうか。
思い返してみると、すごい成果をあげているようなひとたちって、お天気みたいなどうにもならないものにはあまり愚痴らず、土砂降りでずぶ濡れになっても、それはもう終わったこととして仕事していたりする。
どうーにもならないものはどーにもならない。
どーにかなるものには最後まで諦めずどーにかする。
そんなところだと思うんですよね。
そして、一般的な、というか標準的なところって、多分、どーにもならないことに文句を言って、どーにかなるかもしれないことに諦めが早いって気がします。
仕事だって、もっと食らいついたらどーにかなるかもしれないのに、そこまではやらないみたいな。まあ、会社だとそこまでやっても給料増えるわけでもないし、という打算があるかもしれませんが。
しかし、上に行くひとって多分、そういうところは打算では動かないんです。その違いは大きいと思うんですよね。
積極的、肯定的で運気が開ける
陰気であったり、ネガティヴであったり、自虐的であったり、ウジウジしていたりすると決まって運気は開かないものです。
これは自分の経験からよくわかる。
結局、運気が開くときって、積極的、肯定的がキーワードになっています。
愚痴ってばかりのひとって、やっぱり行動しないんで、行動しなければ環境は変わらないわけで、現状維持で御の字というところまでしか行けない。
ちなみに恥ずかしながら、わたしの母親がこうした人間の典型で、暑さを言い訳にして何も行動しないタイプです。
でも、否定が悪いというわけではありません。否定的であり続けるというのがいけないんです。
物事を否定で捉えて、そしたら次の肯定につながる行動をする。それならいい。
暑いことを否定的に捉えても、だったら愚痴ってばかりいないでエアコンをつければいい。ガリガリ君を食べればいい。そういうことではないでしょうか。
そして、解決されたらその問題はおしまい。明日がまた暑くても、一日一日、ちゃんと秋に近づいている。だったら、暑さを愚痴るのはやめよう。
暑いうちにキンキンに冷えたビールを一気飲みする快感を楽しもう。
この世の全ての事象は、多面的であり、暑さも愚痴の対象になる暑さだけではないのだから。
暑いのが苦手なわたしはそう考えるようになって、暑さには大人しくなったのでした。