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猫がいるからアタシは大人になった。

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結月です。

今年の干支って知らないまま年を越したわたし。テレビは見ないし、干支にも興味がないし、育児も忙しいし、大晦日から中国からお客さんが四人来て元旦までうちに泊まっていたから干支がどうとかなんて気分はなかったし。

とはいえ、わたしはちゃんと干支を全部言えますよ。言える人、意外と少ないと思うんだよね。

しかし、愛猫家としては干支に猫年っていうのがないのが不満。でも確かベトナムかどこかは猫年があるんだよね。

ところで猫と一緒に寝ることがこの世の最高の幸福だと感じているアタシ。栃木に来てからはまもなく3歳になる愛娘と一緒に寝るようになったから猫と寝る時間は残念ながら少なくなってしまった。

しかし猫が布団の中に潜り込んできて、股間にはまり込んだり、胸の横に寄り添って来るとこれは至福。

猫というのはその体のどこを取っても可愛いものだけれど、特に頭がたまらない。

猫の頭から耳がピンと伸びていて、その間の小さなおでこを至近距離で眺めると、そこに自分の鼻を埋めたくなってしまい中毒になる。

うちには3匹の猫がいる。まだそこまで年寄りではないにせよ、猫はいつかは死ぬわけで3匹が順に死んでいくんだなといつも思う。まるで小津安二郎の映画のように自分の身の回りからひとつひとつ消えていくのだろう。

猫たちがいなくなったら、わたしはひとりで寝ることになるのか。

思えばひとりで寝ることは久しくしていない。猫でなければ女のひとと寝ていたからで、今は愛娘になっている。

猫の寿命を考えたらあと十年以上はある。その頃には愛娘は中学生くらいだから親と一緒に寝ていることなんてない。

まあ、十年以上も先となると、わたしだって変わっているだろうから、むしろ一人で寝るほうがいいなんて言っているかもしれない。

それに猫が寿命が尽きてしまえば、わたしは外国に再び積極的に行きたいと思っている。今は猫のことが心配で、長期留守にすることが憚られるから控えている。

思えば不自由な生活をしてきたものだ。

猫の可愛さを得ると、外国へ行く自由がなくなる。

そこに小さな愛娘も加わり、ますます不自由になっているかもしれない。

その不自由さに不満はない。不自由の代わりに可愛らしさと得ているから。

そう言えば、銀座に店を出したら自由になれると思ったら、思いのほか、そうでもなかった。

仕事としては好きなことをやって、誰からも指図されることがないから自由とは言える。けれども自分が生み出した仕事を遂行し続けることは自由とは違ったものだったようにも思えなくはない。

いやいや、それでも相当やりたいことはやったからやっぱり自由だったのかな。その判別はよくわからない。

多分、自由というのは責任を意識しなくていい状態だと思う。

責任の拘束から解放されている上でやりたいことをやれば自由なのかもしれない。

ただ、それはおもしろいかどうかはわからない。責任があるからこそ、おもしろさを感じられるとも言える。

そうなるとやっぱり趣味よりも仕事のほうがおもしろいんだよね。

やりたくないことを仕事にするんじゃなくて、やりたいことがいつしか仕事になってるとおもしろいから。

さて、猫を可愛がったり、小さな女の子の面倒を看たり、実はそういうのってわたしらしくないなって思う。

本能的にはそういうことよりもっと美にだけまっしぐらって生活が合ってると思うんだけど。

ところが美というのは大変残酷なものでさ。美しくないものは容赦なく全否定するから。美しくないもの以外はこの世に存在しなくていい!みたいな残酷さがある。

だから本音ではずっと残酷でいたいと思ってるわけ。

でも、間違いなくそういうことを貫くと不幸になるね。

美しいけど不幸よりも、猫や愛娘を抱っこする幸せがあるほうがいいんじゃないかってさ。そう思えるようになったのは、うんうん、アタシって大人になった。

猫がうちに来て、それも自分で意図したプロセスでなくある日突然猫が来て、猫との生活が始まってしまった。一人で勝手にやっていたのに、毎日猫のトイレを掃除したり、ご飯をあげたり、猫缶を吟味するようになった。

それも1匹でなく、2匹目が来たら、今度は3匹目が来た。

そんな猫ライフがあったからこそ、今の育児ができている。

猫で鍛えられていたから小さな子も難なく世話することができる。もし猫が来ていなかったら、美意識一直線だったわたしは子供の泣き声など美的なサウンドでないものには我慢できなかったに違いない。

3匹分の猫のウンコに慣れているから、オムツ交換だってできる。

だからうちの猫たちはお役目を背負ってわたしのところに来たってわけ。それも守護霊さんの計らいだってことはわかってる。そうしておかないと、わたしみたいな人間は育児なんか放棄するどころか、虐待してしまうかもしれないから。

おかげで愛娘はわたしにはべったりでよくなついている。もし美を追求していたら、愛娘にも嫌われて、間違いなく不幸へ一直線だった。

人間として自分は随分遠回りしているとつくづく思う。普通なら当たり前にできるようなことができなくて、その当たり前を知るのに時間がかかっている。

元々の精神年齢が低いということだろうか。きっと低いのだろう。

猫の世話をして、愛娘がひとりでなんでもできるようになったら、やっとわたしはやりたいことをちゃんとやるスタートラインに立てるのかもしれない。

十数年後、自分がどういう状態で何を始めるのか、それには自分で自分に興味がある。

そんなことを見据えた2020年の始まり。

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