結月でございます。
今日は花火大会で、2歳半の愛娘を連れて花火ポイントへ。
結論から言うと、やはりわたしに似て花火をじっと見つめていたのは15分くらいで、途中からアイスが食べたいと言い出した。
「そうそう。花火って、飽きるよね。アタシも飽きてた」
と、花火は途中で切り上げ、スーパーでアイスを買ってそのまま帰った。背後ではまだ花火の打ち上げ音が響いている。
それはそうと、こんな田舎でも地元の女の子たちが浴衣を着ていた。
銀座の頃から思っていたけれど、花火大会だから浴衣を着るっていう時点でもう浴衣は終わってるんだなってこと。
その浴衣がペタペラのプリントで、帯も結んでいなくて形になったものを腰に引っ掛けているからとか、そういう次元以前に花火だから浴衣を着て出かけるっていうメンタルがすでに終わってるってこと。
つまり、もうコスプレの意味しかないわけ。文化じゃないわけ、それは。
わたしが望むのは浴衣程度のものなんて、花火だから特別とかじゃなく、ちょっと出かけるときに自然に浴衣でいいやって感じで出かけられること。
もちろん浴衣だから遠出はできないけれど、近所に出かけるような、近所のコミュニティくらいなら浴衣でいるみたいなね、小津安二郎の映画みたいにね、そう思うわけ。
無理だとわかってるけど、文化っていうのは自然で特別なものじゃないって思ってるわけ。
だから浴衣程度でわざわざ着付けをしてもらって、花火に出かけるっていう時点でもうそれは自然な文化じゃないわけ。コスプレなわけ。
結局、根付いてないじゃん。自分で着られないし、年に一度しか花火で浴衣着ないってことは生活に根付いてないから。
むしろ花火大会でもフツーの服っていうほうが自然でいいと思うよ。コスプレよりは生活感があって、それが日常の文化だから。
花火の日でも何とか着てもらえればっていう考え方もあるけどさ、わたしはそれだったら着物なんて文化としての意味を失っているからもう消滅してもいいと思ってる。文化は延命するものじゃなく、自然な日常が根っこにあるものだと思っているから。
着物を着ることを意識している時点でもうおしまいなんだよ。
それは時代だから仕方がない。ネットが5Gになる時代に着物なんて着ないよね。
ある文化を無理に残すことにはあまり意味がない。
今の時代にチョンマゲにしろって無理なのと同じ。
花火大会だから浴衣って、花火大会だからチョンマゲのカツラをかぶるくらいおかしなことだと思う。
何も考えずに浴衣に袖を通すっていう無感覚ね。
それが本当の文化ですよ。