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今度コンサートやるならモーツァルトの「レクイエム」

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結月でございます。

今年が2019年だから、そうか、船橋でコンサートをやって一年が過ぎたってことか。

さて、コンサートですが、今のところやる予定は全くなく、やりたい気持ちもそんなにないから音楽とは違うことをやっていたりします。

コンサートは大変な事業だから、やろうと思ってやれるものでなく、やりたいエネルギーが核爆発するように極限にマックスにならないとできるようなものじゃないです。

それはじわじわと来るというより、わたしの場合は取り憑かれ系なので、前触れもなく一気に来ます。

でもそれって地震や火山噴火みたいに目には見えないものが溜まりに溜まっていて、それでいきなり来るように見えるだけかもしれない。

2016年にモーツァルトの6大交響曲演奏会をやったのも、それはいきなりのように見えて、モーツァルトのそれらの曲はわたしの中で長い、長い間、熟成していたもので、それはボトリングして世に出さないと気が済まないエネルギーになってるんですよ。

それにわたしは音楽事務所のサラリーマンじゃないし、自分で経営していたとしても音楽だけでやっていく気はないから、やりたい音楽しかやらないし、そういう意味でやらなければならないコンサートをし続けなければならないことはないから自由です。

でも、定期公演とか、事務所になると常に何かやらなければならない。これって一日に5回セックスしろっていうようなもので、だから内容が薄いんですよ。だいたい、コンサートの数が多すぎる。

しかし、演奏者を抱えたり、オーケストラを運営するとなると、仕事を回さないといけないから、無理が生じてくる。

わたしはコンサートのチケット代をもっと高くして、その代わり演奏会数を減らすべきだと思ってる。そもそも本場のヨーロッパでもない極東アジアの日本でこれだけの数のコンサートが行われるのが異常で、そりゃ、客が入らないのは当たり前。過剰供給。ついでに言えば、演奏者も多過ぎ。オーケストラも半分以下の数でいい。さらに音楽大学も三分の一以下の数でいい。無駄な大学が多すぎるし。

マジで東京なんてパリよりもコンサートが多いからね。毎日どこかで、どこかのプロオケがコンサートしてるっておかしい。

と、そんな現実がありつつ、変われないんだろうなと他人事のように思いながら、わたしが次にコンサートをやるとすればモーツァルトのレクイエムがやりたい。

実はもう自分が好きでやりたい曲はほとんどやってしまった。バイオリン協奏曲も好きなのは全部やったしね。

あとはマーラーの交響曲がやりたいけど、それは規模がデカ過ぎてあまり現実的じゃない。

しかし、モーツァルトのレクイエムも声楽がある都合、大きな規模になるからやるとなると結構大変なのです。

レクイエムをメインにして、モーツァルトの交響曲と協奏曲をその前にやるモーツァルトフェスティバルにしたいんだよね。

レクイエムはパリに初めて行ったとき、その到着の翌日、サン=ジェルマン・デプレ教会で観た。

パリ最古の教会で、ステンドグラスが夕刻に照らされて、次第に暗くなると、中のキャンドルが明るくなった。

教会の小さな椅子に座ってレクイエムを聴いて、わたしは神は在ると確信したね。フランス哲学をずっと勉強してきたけど、その時やっと神の存在という意味が肌でわかったよ。

そんなレクイエムをやりたいんだけど、迷ってることがある。それはヨーロッパのキリスト教文化がわからない日本の奏者や歌い手で本当のレクイエムができるのかってこと。

技術的にできても、ただの模倣どころか猿真似にしかならないんじゃないかっていう懸念。

日本の奏者は上手だけど、じゃあ、そういう精神性やヨーロッパの哲学を理解しているかちょっと怪しい。

ヨーロッパに留学していたとしても生まれたときから教会があって、礼拝していたようなネイティヴには敵わない。それはもう音に違いが出る。

だから、日本の奏者でやっても技術的には音楽になっても内面的にレクイエムになるのかなという不安。それに合唱の人たちとなると、さらに怪しくなる。

あとは聴いてくれるお客さんだってキリスト教文化はないし、要は楽譜のままの音としての理解しかできない気がする。

そこがシンフォニーやコンチェルトとは違ったところで宗教色があるものは難しい。

しかし、天才のモーツァルトが書いた曲なのだから、それを演奏する奏者が一流ならちゃんと音楽になるだろうしね。

なんて迷っている状態ではまだまだコンサートなんてやれないってことなんだけどね。

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