結月です。
「個人の体験を普遍化してはいけない」
わたしはよくこう言います。そして、自分にもそれを課している。それくらい気をつけないと、思わずやってしまうことだから。
もっと言えば、
「個人の知識も普遍化してはいけない」
これも大事。
つまり、自分の体験や知識は個人的な一事例であって、普遍化するまでのものでないってこと。
例えば、日本に来た外国人が知らずにマズい料理店に行ってしまい、
「日本はメシがマズい国だよ」
と言うのは誤謬。でも、これと同じようなことをかなりのひとはやってます。
それを断定するには、相当数の統計を取らなければならない。
しかし、統計では断定できないようなものも多々ある。味覚はその最たるものです。できると言えば、比較くらい。
自分の体験ならまだしも、テレビで言っていたことや人の話の又聞きを普遍化して話すひとも大変多い。多いどころか、ほとんどがそうです。きっとあなたもそうです。
裏が取れてない情報を検証しないで断定してしまっている。
でも、世論はこういうところでできあがっているわけなんです。
そうやって冤罪をみんなが作っている。
また個人の体験での価値観と公の価値観を混同していることもよく見受けられる。分けて考えなくてはならないものをごちゃ混ぜにしている。
ともかく、わたしは、
「個人の体験・知識を普遍化しない」
ように心がけていて、普遍化しちゃってる話には時間があればあげ足を取ったりしますが、ほとんどはメンドーなので相手にしないとか、付き合っても建設的にならないからやっぱり相手にしません。
だって、ちっぽけな自分の体験がオールマイティーになるはずがないことすらわかってないひとと話すのは疲れるし、時間の無駄だから。
結局は、
「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな」
ということでね。
できるだけ自分の体験から離れなくちゃいけない。離れた上でいろんなものを観察し、普遍化に少しだけ近づいてみる。
でも、人間の力では普遍化はできないんですよ。世界のすべてを見ることなんてできないから。
なので、
「あなたが言うのなら、そうなんだろうな」
と思ってもらえるくらいの説得力と信頼を構築すること。
それにはやっぱり自分の体験から離れなくちゃいけない。そして、確証の高い自分を作っていく。
そういう試みもしないで、大したことない自分の体験を普遍化して話す人間が多いもので。
おまけにネットの受け売りが混ざると聞いてらんないよ。