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ベビーカーを押して10キロ歩く

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結月です。

さてやっと今日で三が日も終わり。何か生み出しているわけでもなく、要は退屈にダラダラ過ごす時間は耐えられなくて、早く仕事モードになりたいって思いつつも、世間そのものがそうじゃないからどうにもならんよね。

引っ越しの片付けをさっさと終わらせ、新しい場所に慣れていきたいと思いながらも、片付けは日曜には2歳の誕生日を迎えるシャンシャンに主導権を握られていて、手伝ってくれてはいても飽きたらわたしの手を引いて外に出ようとする。

だから、今日は神社までベビーカーを押して初詣。

しかし、神社はよく鯉釣りに行くから場所は知りつつも、Yahoo!カーナビで調べるとクルマではわずか8分のところも距離にして5キロほどあり、歩いていくと1時間はかかる予測。

でもクルマで行かなかったのは、大変な混雑で臨時駐車場だけでなく、周囲の住宅地もクルマで埋まるほどで、駐車できることが怪しい上にシャンシャンをわたし一人でチャイルドシートに乗せるためにクルマを出し入れするのが億劫だったから。

どうせ暇なんだし、歩いて行こうと思い立つ。

ただでさえ街に人が少ないこの地域は三が日となるとまるで人もクルマもなく、神社周辺になってようやく一極集中にクルマと人が集まる。

まるで原発事故でも起きたかのような静かさで、とにかく人がいない。クルマが走っていない。

鯉を釣るためにいつもクルマで走る道を改めて歩いてみると、この街に何があるのかなどよくわかる。

何があるかって大して何もないのだけれど、何もないことがよくわかるとも言える。

ともかく、街は歩かないとその街のことはわからないもので、わたしは昔、パリの街を歩き回ったのでパリのことはよくわかっている。

さて、わかっちゃいたけど神社まで歩くとなかなかの距離で、さらにベビーカーを押しながらだからより遠い。

神社に着くと新年三日目でものすごい人で参拝をするのに行列ができ、一瞥して諦める。

なぜなら途中で小さな階段があるからで、行列の中でベビーカーを持ち上げて階段をクリアするのはこれまた大変で、東京での古いお札をお焚き上げに渡し、新しいお札を神棚の分と交通安全の分を買った。

ちなみに古いお札はどこの神社にも返してオッケーで、何も買ったところにわざわざ行かなくてもいいという知識はあったら楽だと思うよ。

というわけで参拝は後日改めてクルマで来ることにし、テキ屋の屋台を眺めながら何か買ってシャンシャンと食べてもいいかなと少しは思ったけれど、それはそれでメンドーだからやめた。

それでもベビーカーから身を乗り出して興味津々な愛娘を背後から見て、この世に生まれてまだ2年の興味のときめきを感じられた。

しかしながら、人間は大人になるにつれ、生きていく苦労が増え、これからシャンシャンがどんな苦労を克服しなければならないかを想像すると少し哀しくもなる。

言葉もよく話すようになり、世界の中で表現することを急速に覚えてはいても、言葉を覚えることで社会で生きていく苦労が増えるのだろうと思う。

猫はその言葉でのやり取りがないからずっと穏やかなままで、それが猫の魅力なのかもしれない。

さてさて、そんな猫たちのこともあって、今日はまだ片付け切れていない新居の寝室で猫三匹を一緒にベッドで一眠りする。

東京の自宅と同じベッドだからそれには慣れていても部屋が異なるから猫たちも少し落ち着きがない。でも、30分もすると東京の時と同じようにわたしを囲うようにして猫が布団に潜り込んでくる。

猫たちもずっとわたしが一緒に寝ていない日々だったので安心したんじゃないか、と思う。

1階はすっかり慣れて、こうしてMacBook Proを開いていても、そのテーブルの上に集まっていて猫を撫でながらキーボードを叩く。

そんな明日は夕刻にはシャンシャンたちがいるマンションでなく、こちらの新居に来て久しぶりに一人で食事をしてぐっすりと眠る。なぜなら、5日からは京都へ京友禅の染めをガン見するために着物を誂えてくれる人たちを連れて行くからで、日にちが変わる頃にわたしは栃木を愛車で出発し、日光街道は最速で走り、次々とメンバーをピックアップして京都に行くため十分なコンディションを整えておきたいから。

わたしは子供の頃からずっと一人で過ごしてきたので、正直に言うと一人の時間がないとどうにもこうにも体力がなくなるようで、何も考えられないし、生きた心地がしない。

とにかくゆっくりと考える時間がないと駄目なタイプで、それはどんなに愛娘が可愛くてもそうなのである。

とまあ、そんな具合で明日は京都へ行くためにそのプランニングを頭の中でやっておきたく、そうでないとうまく事が運ばず、約600キロをクルマで走ることが予定通りに進まないだろうから。

と、栃木に来てシャンシャンたちと過ごすのはいいけれど、一人で本を読みたくもなり、実はずっと読書欲も音楽欲もなくなってしまっていたというのにそれらの欲望が復活してきて、まだ配線していないオーディオでマーラーの交響曲を聴きたいと思ったり、小説の「惑星ソラリス」の続きを読みたいと思ったりしている。

それも不思議とかつての欲望とはどこか一皮むけたところがあり、昔と同じではない。

栃木の田舎でそうした文化が乏しいせいで「渇望」が芽生えてきたのだろうか。

そうなると瓢箪から駒で、栃木への移転が今までの「やりきった感」の虚脱から抜け出し、新しい意欲が出るきっかけになったかもしれない。

やはり場所を変えることは重要で、その土地に住んで何も変化がないならそこを離れた方がいいのだろう。

それは会社など勤めも同じで、その会社に勤める日々が自分にとって何の変化ももたらさないのであれば転職したほうがいい。

離れることによって磁場が変わり、次のステップへ進むことができるのだから。

そういう意味でもわたしはある土地に骨を埋めるとか、一つの会社に勤め続けることには否定的に考えている。

ところでベビーカーを押してとは言っても、たかだか10キロほど歩いて筋肉痛になっているようじゃ、結美堂山ガール部で男体山に登るなんてできないよね。

筋肉は使わなければ衰える。

使わないと衰えるのは何事も同じか。

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