結月でございます。
自分の過去の話や身の上話、そういった話は総じておもしろくなく、退屈で、話す本人は気持ちが良くても、それは飼っている猫の話を他人が聞いてもつまらないのと同様だから、自分の話をするときは注意しなければならない。
私小説や自伝の難しさはここにあるわけだけど、大抵は他人が聞いてもおもしろくもなんともない人生のひとが大半だから、やっぱりおもしろくない。
壮絶な過去ならドキメンタリーとしておもしろい。ところがそんな過去を持ったひとはたくさんはいない。
自分の過去や自分のことを話すにはテクニックが必要で、どこかその経験が人間の普遍性につながっていて、他者が「なるほど」と思えるような内容に導かなければならない。
ともかく、身の上話は下品なものだから、わたしは自分ではほとんどすることがなく、自分の過去の出来事を話すときは「意味」を持たせられるときにしかしない。
自分の家族の話もすこぶる嫌で、やっぱりひとに聞かせるものでないと思っている。
しかし、少しだけ話すと、わたしの妻は身の上話ばかりする女で、同じ話を枕元で、そしてクルマの中でも何度も聞いている。
同じ話を何度もするのは、おそらく彼女の中でまだ消化できていないからであろうし、それが自分にとって大きな記憶になっているからだろうと思う。
他人の身の上話が嫌いなわたしは彼女の話はよく聞いている。
それは中国という異国の地で、しかも生まれたのが文化大革命終結の翌年であり、大陸全体が混乱にあり、飢餓があり、政治もグチャグチャなときに生まれて育ったその経験は、同じ頃に自宅で母が作るビーフストロガノフなんて日本で食べていたようなわたしにとってはとても珍しくて、興味深い話だからなのである。
文化大革命で中国の知性が抹殺されたそんな時代の農村の話。
そこにあるものと言えば「苦労」しかなく、苦労以外には何もないような時代の話。
そんな身の上話を聞きながら、なるほど、そういう時代にそうやって育ったのだから、今の彼女はそうなんだなと思えるところが節々にあり、納得はしつつも、今の時代の日本では困ったなと思うこともある。
それはお互い様であろうけれど、それは自分の身内だからこそ聞ける話で、やっぱり他人となると、身の上話はあまりおもしろくない。
去年の年明けすぐに愛娘のシャンシャンが生まれ、あと数ヶ月で2歳になる。大きな声ではしゃいだり、いろんなものに興味を持って手を出したりするその姿はすこぶる可愛い。
こんなにも可愛いものなのかと思うわけで、その可愛さは身の上話的で他人が聞いてもおもしろくない。
しかし、その可愛さのせいで、わたしという人間が変化してくる。
今では自分勝手に生きていたのが、自分勝手よりも愛娘のために自分ができることを考えて行動するようになる。
栃木と東京という距離に不便さを感じつつも、毎日愛娘と一緒だとまったく仕事にならないから、このほうがいいとも思ったりする。
とはいえ、体は一つしかないから、愛娘にしてやらないといけないことをいかに提供するかが問題で、どうにもこうにも柄にも合わずため息をついていたりする。
他人の猫の話もつまらない代表格なのにあえてすると、うちの3匹の猫のことがこれまた可愛くて、ここから動くこともできない。
質は異なれど、可愛さというか、大事さは愛娘と猫に差はなく、両方でなければならない。
どちらも失えないし、どちらも大事で、これまたたった一つの体が引き裂かれそうでもある。
さて、愛娘が大きくなるにつれ、食べ物はどんなものを与えるのがいいか、食べ過ぎには気をつけるようにとか、その健康を考える。
そんなことを考えていると、わたし自身がお酒なんて飲んでいるようじゃ駄目だなって気がしてきた。
つまり、わたしが2歳の頃、きっと母親は今のわたしと同じことを考えて育てていたはずで、せっかく親がそうしてきたのに大人になったら自分でお酒なんて飲んでいるようじゃバチが当たる。
しかし、人間というのは、どうして小さなときは可愛らしいのに大人になったら憎たらしくなるのだろう?
わたしは時折、どうして自分がこんな人間になってしまったのだろう?と自問するときがある。
自分のことは嫌いではないとはいえ、すごく好きとも思えない。
もし自分という人間が目の前にいたら、絶対に仲良くできないと確信している。嫌な奴だと思う。
嫌な奴だからこそ、そんな奴の身の上話なんて聞きたくもない。
でも、好きなひとの身の上話だったら聞きたいと思うだろうか?
聞いてしまったら、嫌いになることがあるかもしれない。
「秘すれば花」
であって、やっぱり自分の話なんてしないほうがいい。
他人の身の上話を聞くときは、自分がやりたい企画に必要な話をインタビューで訊くとか、そういうった場合でないとね。
猫が大事とか、愛娘が可愛いとか、やっぱり下品な話だと思う。