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何かを得れば、何かを失う。

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結月です。

この2年ほど、本をあまり読んでいなくて、特に小説はほとんで読んでいない。

なんて言いながら、タルコフスキー監督の映画『惑星ソラリス』の原作をちょうど今、読んでたりするんですけどね。

それでも読書量は以前に比べて9割くらいは減った。

ついでに言うと、音楽はほぼ0%になるほど聴いていない。

本に関しては、ロベルト・ボラーニョの『2666』があまりにも凄すぎて、あの小説を読んだ後、いろんな小説を読んだけれど、全てがショボく感じてしまって、読むものがなくなったから。

それから文芸的なものが時代遅れになって、でもすでに文芸書はかなりの量を読んでいたからもういいかなという気がして、ネットで垂れ流されているものをかなり読んでいた。

ネット的な言語を習得していたとも言える。

音楽については、2016年にサントリーホールでマロオケを開催して、もうあれ以上の感動はないと思うと、何を聴いても感動しなくなってしまい、音楽も随分やったから新鮮味がなくなってしまった。

そのくせ、バイオリンレッスンのときには、生徒相手にヨゼフ・シゲティのことを熱く語ってしまったりはする矛盾があって、でも音楽はしばらくはいいと思ってる。

霊的なことは2015年から一旦離れて、世俗に生きる現実的強さを身につけようとして霊的なことは一切辞めた。

でも、ようやく3年経って、また霊的な世界に戻ろうと思い、今日、3年ぶりに霊能の先生に会ったら、わたしは一言も話していないのに、

「世俗で随分、揉まれたみたいで。よく修行したのね。前よりたくましくなったわよ。あなたが来るの、3日前にわかってた」

と言われ、相変わらずさすがだなぁと思った。

さて。

「何かを得れば、何かを失う」

これは鉄則。

同時に幾つものことを得ることはできない。

つまり、何かを得ようと思ったら、何かを捨てなければならない。

今、主流となっているネット時代の知識を得るために、わたしはずっと好きだった文芸を捨てた。

自分にとって何にも勝るコンサートで感動を得たことで、音楽の感動を失った。

世俗での強さを得るために、想念の世界を捨てた。

しかし、これは振り子のように戻って来る。

失うこと、捨てることで得たものが最大になると、最大になった姿でまた戻ることで過去を凌駕することができる。

ずっとネットのことばかり勉強していたら、それに関してはとても詳しくなったし、最先端の考え方を手に入れられた、と思う。

ところがネットの中の言語にずっとどっぷりだと、文章が劣化してくる。文章を書く反射神経が鈍ってくる。

その鈍りに実はこのところ不満に思えてきて、昔のほうがキレはあったな、と思う。

それは当時のほうがキレのある文学作品ばかり読んでいたからで、やはりネットに垂れ流されているような文章とは違うから、磨かれていく。

しかし、時代はネット。キレはあっても古臭い紙的な書き方は受け入れてもらえない。その事実をネットのほうに行ってよくわかった。同時にネットだけでは文章にキレがなくなる。

だから、ずっと捨てていた文芸に戻ろうという気分になっている。そして、スタニスワフ・レムの『ソラリス』なんて読んでいる。

戻るのは回帰ではない。離れたことによってバージョンアップして、いやそれどころかOSが変わったくらいのところから新たに戻るという感じ。だから、戻ってはいても、自分がすごく新しくなっていると自覚している。

視野が広く、視野が深くなった。

きっと音楽も数年後に戻ってくるのかもしれない。

数年間離れてみて、音楽でないいろんなことを得て、今よりももっと力強く、そして今は持ち合わせていない視野と力を身につけたとき、やっとのことでサントリーホールでのマロオケを超える音楽をまたできるのかもしれない。

だから、離れなくてはいけない。

興味が持てないのは、離れてバージョンアップしないと、過去を越えられないから。

これはヘーゲルの弁証法なんだろう。

そうやってアウフヘーベンしながら、螺旋的に発展していく。

何かを得れば何かを失うけれど、すべてを失っているわけではない。失うという否定を通じて、実は得たものをどこかで温存し、それを発展させている。

そのためにはまず捨てないといけないことがある。

ただし、捨て切ってはいけない。

捨て切ってしまえば、次につながるものが何もなくなってしまうから。

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