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小さな子供といる時間は真空

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結月でございます。

一昨日の晩から栃木にいて、そして今晩東京に戻ってきた。

栃木には愛娘がいて、東京には愛猫がいる。

国道4号線を走っていると、東京方面の空が不気味に黒く、次第に雨が降ってくる。それもそれほど長くない時間で大雨となり、土砂降りとなり、わたしはちょっとときめく。

雨の中をクルマで走るのが好きだからで、土砂降りであればあるほどいい。車線は見えづらく、ワイパーをフル加速にしても視界は40%ほどで、空は一瞬真昼になったかのように光ると稲妻が縦に空を裂く。それも頻繁にあるものだから、ますます興奮してきて、もっと、もっと、もっと、と思う。

まるで別の惑星にいるようで、きっと金星あたりが道路が補正されてクルマで走るとあんな土砂降りで、稲妻がのべつ空を輝かせる風景なんじゃないかと想像する。

埼玉あたりに入ると国道の脇はネオンの看板が満たされるようになる。その明かりと対向車線のヘッドライトは宝石のようでもあり、雨が降ると艶が出るせいで、ますます幻想的になる。

雨は美的だし、クルマの走行はちょっとデンジャラスで興奮するし、何よりもクルマというのはあんなに土砂降りでもまったく雨に濡れないのが魅力なんだよね。

わたしは強烈な雨女だけど、なるほど自分が雨が好きということに今更ながら気づいた。好きだから雨を呼ぶんだ。ただそれだけのことなんだ。

さて、栃木にいるときは生後1歳8ヶ月のシャンシャンとべったりで、というのもべったりであらざる得ないわけだけれど、朝7時過ぎにいち早くシャンシャンが目を覚まし、それに伴いわたしも目を覚まし、寝起きの水を取っ手の付いた哺乳瓶に入れるとシャンシャンに渡し、わたしは台所で野菜や肉を切り、料理を作る。

そして、朝食ができると、子供向け番組がNHKのEテレで始まっていて、人形劇の「コレナンデ商会」を見て、「おかあさんといっしょ」、そして「いないいないばあっ!」という流れである。

シャンシャンはすっかり自分でご飯を食べられるようになっていて、食べ終わるとわたしの膝の上に座る。

シャンシャンを膝の上に乗せながら、わたしは朝からハイボールを飲み、一緒に「いないいないばあっ!」を見ている。

シャンシャンがお昼寝をするときは、わたしも横で一緒に寝てしまう。そしてシャンシャンが起きると、わたしも起きる。

ともかく、1歳8ヶ月と連動しているのである。

シャンシャンはYouTubeが好きで、中国語の子供向けチャンネルを見たり、そこからリンクしていつしかロシア語になったり、英語になったりしている。タブレットを使いこなし、人差し指でスクロールしながら、興味のあるチャンネルをタッチして再生している。

タブレットを使いこなすシャンシャンは1歳8ヶ月にして、スマホを使いこなせないわたしの母の能力を超えた。

夕刻になると買い物のついでにシャンシャンをベビーカーに乗せ、近くのイオンまで行く。

ここには遊技場というか、UFOキャッチャーやコインゲーム、体感ゲームなどがある場所があり、その賑やかさがシャンシャンは大好きなのである。

ベビーカーから降ろしてやると、万歳をしながら走り回り、ゲーム機のボタンやレバーを手当たり次第に触ったり、叩いたり、無我夢中。

転びやしないかと、わたしは早足で付いて回る。

そんな自分を感じて、守護霊というのはこういう仕事をしているんだと思った。

わたしはシャンシャンが転びそうなことを予測しながら背後から見守っている。わたしの守護霊も同じようにわたしを見守っている。

守護霊から見れば、わたしだって生後1歳8ヶ月レベルなのだろう。

とまあ、こんな具合でシャンシャンに付きっきりだから、栃木にはMacBook Proを持って行ってはいても、それを開くことはなかなかできず、かろうじてメールを確認する程度。

MacBook Proには編集のための動画素材を入れておいたけれど、とてもじゃないが編集はできない。

それを不満に思っているのではなく、そういうものだと捉えているのでなんとも思っちゃいない。

小さな子供といるときのわたしは真空状態で、自我というものが希薄になっている。シャンシャンばかりを見ていて、自分のことは考えない。

シャンシャンが泣き出しても、シャンシャンが何をしたいのかを考える。それに応じていろんなことをやってみる。

まるでシャンシャンに憑依するようにしているから、不思議とシャンシャンがどんな粗相をしてもなんとも思わない。

おそらく虐待とは、子供に対して自我を叩きつけて、子供に要求することから始まるのだろう。

子供とは対峙するものじゃない、と思う。

子供の流れに沿うようにして一緒に流れてしまおう。

世の中の虐待をなくすには、一緒に流れる心がけを親に教えることなんじゃないか。

そして、子供相手に真剣に怒ったり、八つ当たりするのは、子供に対峙するほど親が子供だってことなんじゃないか。

守護霊のように霊格が離れていれば、対峙することなく背後から流れに沿うようにして見守っていられる。

ともかく、ステージが違う子供に自我を叩きつけることは愚かなことなんだ。

さて、そんなシャンシャンと過ごしていると、いつまでも自我を消し去る自分であってはいられないようになる。

それは仕事をしないといけないからで、毎日MacBook Proを開けないのはまずい。

だから、それを確信した頃にわたしは愛車のエンジンをかけ、栃木を離れる。東京へ向かう。

しかし、こんなのもあと数年なのだろう。

シャンシャンにしっかりとした自我が芽生えてきたら、緩やかに対峙していくのだろう。

そうやっていきながら、時間は進む。

そして、すべては変化する。

 

 

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