あらゆる美しさが忘れられていく

結月です。

随分小さい頃から絵画と映画は観てきましたね。それは京都にいたからというのもあり、つまり京都は美術館がある。京都市立美術館、そして京都国立近代美術館。

国立近代美術館がオープンしたのは何となく覚えていて、コンクリートとガラスで味気ないなと感じたものです。

ある時期、父が画廊にハマって版画ばかり買い漁っていたから、毎週のように画廊へ行っていたんです。そこには今では大御所になった画家たちも当時は若手のアバンギャルドで、彼らの絵を毎週見ていたから知らずのうちに前衛芸術に接していました。画家たちも時折、画廊に来ていて、絵の話をよく聞いたものです。

画廊での絵が現役画家ばかりだったのに対し、美術館での展覧会は古い西洋絵画や日本画。展覧会になるほどだから、印象派や後期印象派、キュビズムやシュールレアリスムなどなど、世界の名画、特に近代絵画は小さい頃に一通り観ていました。

映画は京都に映画館がたくさんあって、京都でやっていない映画があれば大阪まで観に行くといった具合。

毎日、新聞の映画館情報を見るのが楽しかった。映画館と映画のタイトル、そして上映時間が並んでいて、それを眺めるだけで心がときめいたものです。

今でも京都に行けば新京極をブラブラするのは、映画を観に行ったのが新京極だったからで、今はもうないですが、美松映劇なんて懐かしいですね。

まだその頃は家庭で見られるビデオがなかったので、映画は映画館で観るものでした。

大学生になった時、初めてパリへ行き、ルーブルやオルセーはもちろん、美術館には狂ったように通いました。

父が近代絵画以降しか興味がなかったせいで、子供の頃に絵を観たと言っても、近代絵画ばかりだったんです。ですから、その時代より前の絵画には少し疎かったんです。

でも、わたし自身はルネサンスに興味があって、ルーブル美術館でそれらを一気に観たときは絵画の歴史がわたしの中でつながりました。

絵画は歴史であって、破壊と創造を繰り返しながら前に進んでいる。どんなに前衛でも辿って行くとルネサンスが根っこであったりする。

その後、イタリアやニューヨークでも美術館巡りはしたので、世界の名画はもうほとんど観てしまったという感じです。

そして、おびただしい数の絵画、そして映画を観てきた中で、ちょっと前までは「この絵は!」だとか、「この映画は!」といった思い入れのあるものがいくつもあったんですが、今はもう思い出すこともなくなってきました。

それと同時に美術館にはほとんど行かなくなり、正直、興味もありません。

きっとそれは観てきた名画が自分の中で咀嚼されたからだと思うんです。もし咀嚼されておらず、まだ形を残していたら語りたくもなりますが、咀嚼して形がなくなると「これ!」という具体的なものがなくなってきます。

いえ、多分咀嚼を通り過ぎて、消化されて養分になって姿形もなくなった状態なのだと思います。

栄養として吸収してしまうと、もうそれ以上は吸収することもありません。むしろ吸収した養分で何かを創りたいという気持ちのほうが強くなってきます。

過去の偉大な芸術家たちの結果はもうわかったから、そしたら次に行かなければおもしろくありません。

彼らが創り上げた美しさは、咀嚼され、消化され、形もなくなり自分の中で忘れ去られて行く。

興味がなくなったのはそういう意味なんです。

それよりも自分が今まで見たことがないものを見たい。

それも他人が創るものでなく、自分で創りたい。

今まで生きてきて、そう思う時期に来たんだなと思うんですよね。