結月でございます。
ホリエモンが新幹線で座席を倒していいか声をかけられたことに対してのツイッターが話題になっています。
これは堀江さんの本を読んだりして、堀江さんの考え方がわかっていれば、堀江さんらしいなって共感できるんですが、多くのひとは堀江さんの本は読んだことないし、ライブドアのときのマスコミが作り上げた一方的なネガティヴなイメージしか持ってないから批判されてしまう。
堀江さんはもともとプログラマーだからっていうのもあるでしょうが、余計な無駄は嫌うんです。やらなくていい無意味なことに労力や時間をかけることを嫌悪する、それはプログラムというものができるだけ無駄なく、バグなく、目的を遂行できるかを考えるからで、社会に数ある無駄をなくせば、もっとシンプルにいろんなことができるのにっていう感じですね。
ですから、新幹線でゆっくりくつろいでいるときに、座席を倒しても別に気にしないというのにわざわざ確認してきて、くつろぎの時間を壊されると、どうしてひとの時間を壊してまでそんな無駄なことを訊いてくるの?という問いかけです。
わたしも新幹線や飛行機で前のひとが席を倒していいか訊かれると、不機嫌になるタイプで、だから自分が席を倒すときも何も言わずに倒します。
だって、席は倒れるようにできてるし、倒さないと首は痛くなるし、常識を逸して倒しすぎるのでなければ相手に迷惑になるものでもないですから。
こうした堀江さんの意見に対して、
「日本人らしいモラルの一種」
みたいな反論があって、こういうところが日本はキモいとわたしは思いました。
これはモラルなんかじゃなくて、あらかじめ断っておかないとキレるひとが多いという裏返しだから。
つまり、これって不良グループの前を通り過ぎるときに、
「失礼しますって言わんかい!」
と恫喝するとか、
体育会系の部活で先輩とすれ違ったら、
「挨拶せんか!」
と、これまた恫喝されたりといったことと同じなんですよ。
潜在的に社会がそうだから、あらかじめ断っておくのが風習になる。
だから、そういう社会ってモラルが高いのではなく、恐怖なんですよ。
わたしは中国にまあまあ行ってますが、向こうって大らかっていうか、いい加減っていうか、細かいことは全然気にしないので、電車の中はうるさいし、スーパーに行ったら子供が走り回ってるし、大人だって商品を手に取ってやっぱり買うのをやめようと思うと、全然違う陳列棚に平気で置くし、当然ながら座席だって勝手に倒す。
それでいてとりわけ文句も出ない。まあ、過剰な場合は別ですが。
ともかく、細かいことを気にしない体質の社会はとても楽で恐怖がないんですよね。
ところが日本は何から何まで禁止事項が蔓延っていて、神経質なまでに禁止を散りばめ、事前にトラブルを回避しようとしています。
高速バスなんかでは、運転手がアナウンスで、
「座席を倒すときは、後ろのお客様に一声、おかけください」
って言ったりしますね。
堀江さんの前の客もおそらくそうした習慣で声をかけたんでしょうが、確かに常識を逸して座席を倒しすぎる客もいて、それで喧嘩のなったりする事例からなんだか面倒な社会になってきたわけです。
しかしながら、正真正銘にマナーが悪い客なんてそうはたくさんいないし、社会がそれに怯えてしまい、一見すると礼儀正しいように見えても、実は「怖いから」という理由でなされることはモラルの高さではないでしょう。
さて、堀江貴文さんというのは、とても優しいひとで、愛に満ちたひとだとわたしは思うんですよ。
こんなことを言うとまるでイメージが違うと驚かれるでしょうけれど。
だって、堀江さんは座席を倒されてもなんとも思わない大らかさがあるから、わざわざ倒していいか尋ねることがおかしいと感じるわけです。どうしてこっちは気にしてないのに、そんなこと訊くわけ?っていう戸惑い。
堀江さんのように席を倒すときは勝手に倒せばいいということが社会で普通になれば、社会は大らかになりますよね。後ろのひとに怯えなくていいじゃないですか。
もし前のひとが常識を逸脱するほど倒してきたら、
「ちょっとすいません」
って言えばいいだけで。
とにかく、日本は接客など見ても、クレーマーに怯えているのか、気持ち悪いくらい丁寧だったりしますね。
これはマナーがいいのではなく、ただ恐怖なだけです。
そういう意味で、日本での生活はとても神経を使うし、疲れる。そりゃ、ストレスになりますよ。
ですから、日本のマナーの良さというのは、その根底は恐怖であると考えたほうがいいです。
さて、話は変わって、今日は水曜日なので、「結月美妃の美食エッセー100」をnote で配信です。
第4回は、中国での結婚式のお話。
有料記事なので普段は話さないプライベートな内容も入れました。
1記事が100円なので、投げ銭的に暇つぶしにどうぞ。
暑いしね。っていうのは関係ないか。