大雨で避難勧告が出ていてなぜ新聞を配達しなければならないのか?

結月でございます。

わたしの母は、わたしが保育園の時から新聞配達をしていて、今もまだしているんですね。

昔は朝刊と夕刊の両方を配っていて、夜中の2時くらいに起きて、朝の7時前くらいに帰ってくる。そして昼まで寝てから、午後の3時くらいから夕刊を配る。

つまり、朝刊を配り終えて一段落してから、新聞配達用のバイクでわたしを保育園へ連れて行き、夕刊を配り終えたらまたバイクで迎えにくるということだったんですよ。

それが小学校になって、中学校になって、高校になってもずっと同じサイクルだったわけですが。

今は六十何歳かになって朝刊だけになり、またネット時代になって新聞を購読するひとがとても少なくなったので、朝刊といっても早朝3時くらいに家を出て6時頃には帰ってきます。

さて、ここ数日前から西日本のほうではすごい雨だったようです。

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わたしはテレビを見ないので、映像では見ていないのですが、母がいる実家の京都も大雨で、母からWechat(中国のLINEみたいなもの)でメッセージが来ました。ところでわたしがLINEでなくメインをWechatを使っているので、母とはWechatなんですよ。

そのメッセージは、

「住んでいる地域にも避難勧告が出ているから、注意しようと思う」

みたいなもので、子供の頃から台風の暴風雨でもずぶ濡れになって新聞を配りに行っていたので、

「避難勧告が出ているのに、新聞って配るの?」

と、わたしは半ば嫌味な問題提起をしました。

わたしの母は、責任感が強いのか、ただの頑固なのかよくわかりませんが、避難勧告が出ていても仕事には行く性格なのをわたしはよくわかっているから、ちょっと嫌味な言い方をしたのですが、わたしが言いたいことは、ネット時代で新聞なんか昔ほどの価値のないものを大雨で避難勧告が出ている中を配る意味がどれくらいあるのか?を言いたかったのです。

たかだか一部150円で、情報量はスマホの方が早くて多い時代に、生命的危機がある避難勧告の雨の中、どうして新聞を配らなくてはならないのかが、わたしには意味不明だったのです。

昔より今は社会も優しくなって、こんな大雨なら新聞は来なくて仕方ないと理解してもらえるし、今回は配れなかったから天候が良くなったら営業所まで取りに来てほしい、と伝えてもいいし、大雨の中でも新聞を持ってこい!というひとなんて、精神的におかしいのだから、無視しておけばいい。

でも、仕事の責任感か知りませんが、それとも断るほうがずむ濡れになるより面倒という感覚のせいか、大雨でも新聞を配りに行く。

まあ、京都といっても、河川からは遠いし、地理的に恐らくは土砂災害などはないとわかっている場所とはいえ、一応避難勧告がその地区に出ているのだから、休んだっていいんじゃないかと思うんですよ。

つまり、新聞程度のものに責任感みたいなものを感じて休まないっていう変な美談めいたものがブラックを生むんだろうなって。

ほんと、今の新聞なんて昔に比べたら記事が少なくてペラペラだし、夕刊なんて回覧板レベルの分量だし、すべて電子化すれば、読みたいひとは新聞配達なんてなくても大雨でも自宅でスマホやタブレットですぐ読める。

そういう時代にずぶ濡れになって新聞を配りに行く意義ってどれほどあるんだろうか?

それに母も気づいて、もっと自分でいろんなことをやってみるメンタリティがあればいいのだけれど、要は古い女なんだと思う。

今更それは変えることもできないし、新聞を配る以外に何かをやるスキルもないとはいえ、こういうことは美談にしちゃいけないって思うわけです。

でも、新聞に限らず、このままずっと同じような仕事をしていたら意義のないことを続けなければならない予備軍は40代、いえ早ければ30代からかなりの数がいる。

大雨であってもやらなければならないほどのことならまだいいけれど、新聞はほとんど読まれていないし、電子化もされている中で配達することはどれほどの価値があるのだろう?

母は意固地だから、それを続けることにプライドがあるのはわかる。しかし、そこを柔軟にしないと社会は変わらないし、たかが新聞で死なれても困る。

世の中はどうってことない仕事が大半。そこに責任感を持って仕事をするっていう生き方はもう古いし、何もいいことはないんです。

ただ、六十何歳かになった母にそれはもうできない、というか手遅れなので、手遅れにならないうちに女性の生き方改革の提案をしていきたいなって思いました。

仕事を休むより、責任感を全うしたほうが手続き的に楽っていうのはわかりますけどね。だって、休むなんて言ったら、店から叱られたり、人間関係を崩すことになるから、そっちの方がずむ濡れになるよりリスクだっていう現状。

でも、いつまでも社会が、そして個人がそのような考え方ではいけないって思うんですよ。

自分を状況に無理に合わせるのでなく、自分の主体で判断して生きるっていうことを言っていきたいなってことです。 

そうしたほうが、きっとハッピーになるひとが増えるんじゃないでしょうか。