芥川賞候補『美しい顔』は、結婚詐欺師の身の上話のようだった。

結月でございます。

講談社の「群像」から芥川賞候補になった『美しい顔』ですが、これは盗用ではないとネットで無料公開されました。
講談社は、

「多くの関係者の名誉が著しく傷つけられたことに対し、強い憤りを持つとともに、厳重に抗議いたします」

だとか、新潮社には、

「小説という表現形態そのものを否定するかのようなコメントを併記して発表されたことに、著者は大きな衝撃と深い悲しみを覚え、編集部は強い憤りを抱いております」

と言っているようですが、これも苦し紛れで、要は芥川賞が欲しいのは作者よりも講談社ということでしょう。強い憤りを表明することで、芥川賞の候補を取り下げてもらいたくない気持ちの表れ。

しかし、ライバルの新潮社にとっても、自分のところのルポ作品を盗用されて、講談社に芥川賞を取られたら、これはおもしろくない話で、新潮だって簡単に認めるわけにはいかない。

さて、金出してだったら読まないけれど、『美しい顔』がタダになったから読んでみた。

そして、この『美しい顔』、わたしはこれをはっきりと「盗作」だと思った。

最初のほうを読んでいたら、

「結構、いいじゃん」

と思うも、震災の記述に入ってくると、すごく上手くかけているように一見すると感じつつ、どうも嘘くさく見えてくる。

それは他人のルポを参考にしたという事実がわたしに情報として読む前に入っているからでもあります。つまり、読者としてのチェック機能が働いている状態だから。

しかし、そういう情報がない状態で読んでいたであろう群像編集部や選考委員は、

「すごいな!」

と思ったことでしょう。だから、一度認めた自社の作品を簡単に取り下げるわけにはいかない。

ともかく、読み進めていくと、やはり上手く仕上げているように見えても嘘くさく感じる。それは作者も認めているとおり、本人は被災地に行ったことがないところにあるでしょう。

しかし、小説は現場に行かないと書いてはいけない、ということではない。

問題は、震災はまだ7年ほどしか経っていないことです。

つまり、あの震災を多くの日本人がまだ消化しきれていない。東北にいなくても、津波の映像が流れ続けたことは鮮明に記憶に残っているし、東京も激しく揺れ、交通機関が麻痺し帰宅難民が溢れ、同時に原発が爆発し、街の電気は消され、戦時下さながらの状況になったことをよく覚えている。だから、震災をまだ客観視できないんですよ。ましてや被災地となると、目の前で人が流されていき、死んでいくのを見ているわけで、とてもじゃないがあの出来事を小説にするほどの時間が立っていない。

でも『美しい顔』の作者はそれをやってしまった。

普通なら筆が止まる、というより題材として選ぶことを躊躇する、いやそれどころかそもそも震災を小説にしようなんて思えない。

震災が根底にあることを感じさせる描き方ならいい。例えば、ヒットした映画『君の名は。』のように。

あの映画の根底には、震災の哀しみ、できれば震災はなかったらよかった、という願いがあって、あのような描き方になっていやらしくなかった。

ところが『美しい顔』は震災をリアリズムで扱ったわけです。

いえ、正確に言えば、リアリズムを装って書いた。

原民喜は広島で被爆して『夏の花』を書いた。

開高健はベトナム戦争に従軍して『輝ける闇』を書いた。

しかし、『美しい顔』はどうか? ルポルタージュを読んで書いた。

戦争や大災害という目の前で人がたくさん死ぬ現場のことを現地を知らずにルポだけで書く人間性に問題がある、とわたしは思う。

あまりにも悲惨すぎる大量の死を作家として等身大に捉えていれば、その死の重さに呆然となり、現場を知らずに小説なんて書こうとは思えないはず。でも作者は書いた。それは震災による多くの死を真摯に捉えていないから書けた。そうでないと書けない。いや書かないのが作家としての魂ではないか。

開高健はベトナム戦争に従軍し、そしてベトコンの襲撃を受け、200人の部隊がたった17人になった中で生き延びた。それを最初、『ベトナム戦記』というルポルタージュにした。しかし、これが小説家として自身を認められず、半ば鬱病になりながら、自殺と隣り合わせで『輝ける闇』を書いた。

それに比して『美しい顔』はどうか? これは完全にペテンじゃないか。

震災のシーンは確かに凄みがある表現になっている。しかし、それは震災そのものが凄惨であるのだから、そのルポを元に書けば、凄みが出るに決まっている。

でも、それは作者によって描かれたものではない。ルポを元に、そしてあのとき連日、テレビで流された映像をそのまま書いただけ。

この作品の偽善的なところは、28ページ目でテレビカメラがやってきて、「くせに」を連発するところ。

メディアを批判的に捉えているように見えて、被災者をネタにしているのは他ならぬ、この作者ではないか。それを小説にしている作者そのものが「くせに」ではないか。

この主人公を書けるのは、他ならぬその立場に本当にいたひとだけだと思う。いや、それでも書けない。震災からたった7年後では書けない。小説にできるまで気持ちを整理するのにもっと時間がかかる。

開高健だって『輝ける闇』を書き上げるのに何年もかかっている。なのに、どうしてこの作者は震災から7年しか経っていないのに書けたのか? 震災直後から書いたとしても最大7年しかない時間でどうして書けたのか? 

それは嘘だからだ。

小説は確かにフィクションであるけれど、それは手法がフィクションであるだけで書く内容は人間の真実であるはず。でも、この作者はルポを参考にして、嘘つきの手法で書いた。それはまさしく結婚詐欺師の身の上話のようなもの。

結婚詐欺師の女が、

「生まれてすぐに母が死んで、父も失踪して、ずっと私は独りぼっちで生きてきて、本当に苦しかった」

みたいなありもしない告白をするように、この作者は多くの日本人が消化しきれていない震災を他人が取材したルポを使って身の上話をでっち上げて小説という形に落とし込んだ。

見聞をそれらしく仕上げることに関しては才能があるのだろう。まさし結婚詐欺師の嘘のように。

その証拠に震災のシーンでは一見凄みがあった文章が、エンディングは拍子抜けするほど稚拙で、高校生の学芸会の芝居レベルの会話。幼稚すぎて読んでいるほうが恥ずかしくなる。しかし、あのラストこそが作者が自分で書いたものであり、本当の実力なのだろう。盗用を用いた部分とのあまりの落差。それが盗用を物語っている。

ああいう女に騙されていはいけない。わたしはそう思う。ああいう女はいるものだから。嘘の達人という詐欺師は本当にいる。

群像編集部はそんな結婚詐欺師に騙された男のよう。まだ庇おうとしている。

しかし、あの作品が応募されたときは、選ばざるを得なかったのはわかる。まさか盗用だとはわからないし、震災の現場を描いたものだと思ってしまうのは当然。

ただ、ここまでくると往生際が悪い気がする。ここまでミソがついたものは話題になっても売れはしないから。講談社が無料公開に踏み切ったのは、なんとか自社を正当化しようとした行いで、それによって守ろうとしているのは作者ではなく講談社自身だから。

あり得ないだろうけど、万一、芥川賞を取ったとしても、無料公開されたために作者は群像新人賞の賞金50万円しか受け取れない。書籍化されても、無料公開されているから買う人はいない。

だから、無料公開は講談社の最大級の言い訳であり、結婚詐欺に遭ってしまったダサすぎる事実を世間に知られたくない処置。群像の編集部であれば、本心はこの小説はまずかったなと気づいているはず。でも、それは社内政治で言えないのだろう。

震災のことは小説にまだできない。できるとしたら、あと30年は経って、この主人公が結婚し、娘を生み、その娘が母からの震災の見聞を語ることによって描く、震災で死んだ祖母がいたことを知るといった書き方くらいだろう。もし震災を真正面から描くのであれば。

中国の作家、莫言などはそうやって日中戦争を描いているし、でもそれは日中戦争がテーマではない。歴史として咀嚼されたシーンとして扱われているだけ。

震災も歴史としてわたしたちの中で咀嚼されて行く。それは長い年月をかけて。しかし、たった7年では歴史にはならず、原発も含めて現在進行形として震災はある。

だから震災はまだ小説にはできない。だからこそ、その現場を取材したルポルタージュでしか手をつけられない。

そういう意味で『美しい顔』は、まるで結婚詐欺師の身の上話。

わたしはそう思った。