インプットだけでは成長しないよ

結月でございます。

最近で気に入った記事。

はあちゅうさんのこれ。

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ストローがありがたいって話もよくわかる。わたしも訪問着着てるときにペットボトルからそのままお茶飲むなんてルックス的に絶対無理だし。

それよりも、

「アウトプット先が無いと

どんなインプットもただの無駄知識」

っていうのがよかった。

わたしも常日頃、そう思っていて、簡潔にまとめるとこういうことなんだよなって思ったわけです。

わたしは読書量はひとよりはあるほうだと思う。世界の文学作品は大体のところ読んでるし、日本文学もよく読んでる。

ところがもうここ数年、本はあまり読まなくなった。

文学作品に関しては、ロベルト・ボラーニョの『2666』を読んでからというもの、どの小説を読んでもこれには敵わなくて、もう小説はいいやと思った。それくらい弩級の作品だった。

あとは、小説なんて読んでいる暇人でもなくなったから。

それはやりたいことがたくさんあって、それらが小説を読んだところでできるものでなく、つまりやりたいことと小説を読むことが直結しなくなったわけです。

だから、本をたまに読むといっても、それはやりたいこと、つまりアウトプットに繋がるインプットであるものにしか興味がないんですよ。

アウトプットは生産、インプットは消費

ただ本が好きで読んでるっていうのは「消費」なのです。ある作家が書いたものを出版社が編集して、本の形にして提供したものをお金を出して買って読む「消費」ですね。

わたしは図書館なんて行くんじゃねえ!っていう図書館が嫌いな人間ですが、なぜなら、それは自分が読みたいものに金を出してないからで、消費すらしてないからです。

この社会でほとんどのものは消費を対象にして動いています。

何か食べたいっていうのは最もわかりやすい消費で、食べて胃袋に収めるのだからインプットですね。

ところが食べたっていう消費が何かをアウトプットするかというと、フードライターとか、その経験をエッセーにしたり、書籍にしたり、ブログにしたりというアウトプット先がない限りは、ただトイレで排泄するだけのアウトプットしかありません。

アウトプットというのは生産であって、何かを生み出そうとすることですね。言ってみれば、それは発明です。この世にないものを発明するのは最大のアウトプットです。

アウトプットのない消費は、ただ金を使ってるだけ

サラリーマンなど勤め人によくありがちなのがGWなどでの旅行。あれは日々の仕事のストレス発散みたいな要素が強く、何も生み出すことのない消費なんですよ。

つまり、日々の仕事が自分のアウトプットに関係ないものばかりだから、ストレスがたまるのであって、そこからの一時的な逃亡がああいった旅行という形になります。

それが悪いとは言わないけれど、そうした何も残らない消費は、アウトプットで生きている人間から見ると、甚だ無駄に見えるのであり、どうせ旅行で外国へ行くなら、どうしてそれを生産のための素材に使わないのだろう?と思うのです。

映画は観るものじゃねえ!撮るもんだ!

昔、今村昌平監督の美術監督をしていた大変おもしろいひとが、大きな声で、

「映画は観るもんじゃねえ!撮るもんだ!」

と言っていて、本人も楽しそうにしていました。

映画というのは金を払って劇場へ観に行くよりも、撮る行為の方が断然おもしろいんです。

つまり、インプット(消費)よりアウトプット(生産)の方がおもしろいということを言っているわけですね。

かく言うわたしも音楽を仕事にしていても、よほど好きな演奏家でない限りはコンサートに行きません。それは自分がコンサートをプロデュースすることをやって、コンサートを生み出し、集客し、その空間をクリエイトすることが激務だけれど楽しいというのがあるからで、音楽もたくさん聴いた今更、自分が関わっていない他人の主催のコンサートなんて興味がないのです。

つまり、音楽に関してはインプット(消費)に興味がない。

みんなインプットにばかり金を使いすぎ

典型的な無駄な例は、仕事で使うわけもなく、一年に一度海外へ行くかどうかのレベルで英会話などの外国語を習うひと。これ、なんの意味があるのでしょうか?

日本にいれば、英語ですら必要なく、まったく不便は感じません。

それなのに外国語の勉強をしちゃうというのは、インプットという「勉強」が「いいもの」であると学校さながらに思ってしまっているからでしょう。

日本の学校教育が画一的なインプットばかりで、そのアウトプット先は受験というお寒い現状です。

本来、勉強というのは何かを成し遂げるために必要であることを勉強するのであって、無目的にやるものではない。そうした目的性がはっきりしていないから、たとえ大学に入ってもあまり勉強はしないし、就活にしたって目的性がなく、とりあえず就職が目的になって、勉強というものが具体的に生かされることはありません。

そういう無駄なインプットばかりなのが日本で、資格というのもその典型例です。

資格ばかり取って、それをプロフェッショナルとして生かせていない事例ばかりなのは、インプットに時間と金を使うことに酔いしれているからで、アウトプットへの具体性と執念があまりにもなさすぎます。

そもそもいい年した大人が資格を取り始めるなんてとても幼稚なことで、そういうことは学生のうちにやっておくことでしょう。

アウトプットができないというのは幼稚

アウトプットというのは、自分という人間が何ができるかを主体的に行動していくこと。

ところが自分が何をしたいのかさえわからない、という声が多く、それはアイデンティティにおいて重症です。

だからこそ、無目的な就活がなされ、ほとんどのひとがサラリーマン化し、会社で言われたことしかやらないアイデンティティのない日々を過ごすようになります。

アイデンティティのなさが無駄なインプットを招く

消費というのは麻薬的なところがあって、それは「お客様」になれるからです。そして、物質的に欲しいものを手に入れることができるから。

アウトプットで生きている人間は自分の「行為」がアイデンティティであるけれど、それがないひとは消費活動によって自分の輪郭を作り、彩ります。

SNSに投稿されている写真のほとんどがアウトプットのないインプットの消費活動の披露であり、どこそこの料亭で食べた何某という料理、GWで過ごした海外の高級ホテルでの一日など、そういったものは自分がまったくアウトプットに関わっていない写真ばかりなのです。

つまり、アウトプットをしているのは料亭の料理人であり、そのホテルを開発し、サービスを提供している経営者です。

要は他人の成果で自分を彩っているにすぎず、そうした投稿に何か虚しいものを覚えるのはそのせいです。

美術館に行くより絵の具を買え!

消費自体は悪いことではありません。消費は生産のために必要なものにするのがいいのです。そうでなければ、はあちゅうさんの言うアウトプット先がないインプットは無駄知識になります。

つまり、美術館へ行くより絵の具を買えということです。

教養はあっていいし、あったほうがいいですが、美術館で絵を眺めるだけではほとんど無駄です。美術館へ行くなら、そこで得た感動や知識を日々にアウトプットに使っていく。

すなわち、そこで得た教養が自分という情報発信者としてのキャラクターになるようにする。そこにアイデンティティが確立され、そうすれば生きていること自体がアウトプットになってくるのです。

アウトプットができる人間になろう!

ブランド人の田端信太郎さんは、

と言っていますが、わたしも同じことを思っています。

しかしながら、アウトプットができないというのは、日本の教育であったり、社会の特徴であったりするのだから、その中で漠然と生きてきたなら仕方がないとも思います。

だから、わたしは無駄な消費ではなく、消費をするなら生産に直結する仕方、そして自分という人間がアウトプットを通してアイデンティティを感じられるような場を提供したいんですよ。

結月サロンを始めたのもその理由で、プロジェクトというアウトプットのために各個人が自分の能力を発揮し、この世にないものをプロデュースしていく場にしたいと思っているわけです。

 まとめ

いい加減、インプットに酔いしれるのはやめましょう。そういうことは学生のときまでです、せいぜい。

学生時代のノスタルジーに駆られて、すでに社会人になっているのに大学の講座に通い始めたりというのも大人気ない話です。そういう行為は何も生み出しません。

できれば自分のすべての行為が、アウトプットにつながるのがいいです。

そうすると無駄な消費と無駄な時間が減り、それによってできた金と時間をアウトプットのために使うことができます。

アウトプットのために使うことは生産だから、何かを生み出します。生み出すということは何かが残る。これは無駄にはなっていないんですよ。

わたしは結美堂として、ただの消費ではなく、アウトプットに関わるものを提供していきたいと考えています。